医療法人三州会 大勝病院 院長 有村公良
有村院長は開口一番、本紙2月20日号掲載の中村浩一郎春風会理事長の名前を挙げて、「中村先生は後輩なんですよ」と懐かしそうな顔をした。「鹿児島大で同じ科でした。彼は研究者肌でしたから、まだ研究したかったでしょうね」。ほかにもいろんな名前が登場した。医師は本来の目的を達するためにさまざまな情報交換をしていることが分かる取材だった。(質問と写真=有吉)
―大勝病院の特長は。
私が第三内科に入局した時の助教授が大勝洋佑先生(現理事長)でした。大勝先生は昭和55年に当院を開業されたのですが、神経内科だけの単科病院は全国初で、しかもこれだけ大規模なので全国紙に取り上げられたと聞いていますが、果たしてうまくいくだろうかとみんな心配したものです。
当時からの大勝病院の特徴としては脳卒中ですね。脳卒中を診断して、治療して、リハビリテーションし、在宅復帰まで持って行く。それを一連で行なえる病院が必要だというのが大勝先生のお考えだったようで、その先駆けでした。脳卒中を中心として神経疾患を慢性期まで一貫して診る病院は、今でもそう多くはないようです。
今は神経疾患の中で、神経難病というのがあって、たとえばパーキンソン病とか筋萎縮性側索硬化症とかをたくさん診ています。鹿児島市の神経難病の基幹病院です。
そうしているうちに、在宅復帰できない脳卒中の患者さんが出てきて、それで大勝先生は老健の施設を作られ、脳卒中の後遺症で自宅に帰れない人に入所してもらったようです。最近はそのような施設があちこちにできていますが、神経疾患以外にも、肺炎を起こしたような人も診るようにもなってきました。当院の特徴として、高齢化社会で、「地域医療のバックアップ病院」という面もできてきました。ドクターのモチベーションを考えたらどちらかに特化したほうがいいのですが、そうもいきません。
―医師をめざしたきっかけはあるのですか?
なんとなく、です。鹿児島が大好きだったので鹿大の医学部に行き、卒業する時に井形昭弘先生(第三内科教授、のちに学長)の誘いで第三内科に入局したんです。井形先生に健診に連れて行ってもらったり食事に誘ってもらったりして、とてもかわいがられました。いっしょに映画「ミクロの決死圏」を見ている時に「脳のことをまだ誰も分かっていないんだ。宝の山だよ」と言われ、整形外科に行くつもりだったのに神経内科に進みました。そのご縁がなければ大勝先生と出会うこともありませんでした。
いま当院には大勝先生の息子さんが医師として勤めていて、将来は非常に明るい病院です。
―特に趣味はありますか。
昔は卓球をやっていました。小中高、そして大学までね。今村病院分院の宇都宮院長とは大学でダブルスを組んでいて、西日本大会(西医体)で優勝したことがあります。でも卒業して2年目だったかな、鹿児島県の選手権大会で高校生と戦い、張り切り過ぎてぎっくり腰になって即入院。それで卓球が出来なくなり、先輩の勧めでゴルフに転向しました。卓球と違って止まっているボールだから簡単だろうと思っていたらそうじゃなかった。高校時代の同級生と回るんですが、異業種なので息抜きになります。ほかにはジャズを聴くことです。ジャズは昔から好きですね。
―病院の将来像は。
開院当時のように、神経内科として全国的に有名な大勝病院になってほしいという思いがあります。それと、神経のコモンディジーズ(一般的な病気)に対して、最先端でなくてもいいから臨床研究の出来る病院にしたい。鹿児島のデータは鹿児島で持っておく必要があるのではと思います。大学には出来ないことで補い合えればと思い、大勝病院に勤めることにしたんです。
―ポツリヌス療法をされていますね。
私自身は20年くらい前からたずさわって、脳卒中の後遺症に効果があることも知っていますから。簡単に言うと、緊張している筋肉を緩める療法です。私のライフワークが筋電図ですから、筋電図ガイド下に行っています。もう150例を超えました。近隣の県ではかなり多いほうだと思います。それと促通反復法(川平法)を組み合わせたのが当院の特徴です。これから注目される治療でしょうね。