あれから一年経ってしまった。大津波が一瞬にして街や人々を連れ去ってしまってから。未だに人の心の傷を癒すことはないまま、時間だけがすぎてゆく。そして、あれから十七年経ってしまった。神戸の街は当時の面影を残すことはない。そして、あれから六十七年経ってしまった。広島の街は、原爆ドームだけが記憶をとどめている。
原爆ドームは最初から原爆ドームだったのではない。あの閃光の直前まで広島産業奨励館という、チェコ人の建築家ヤン・レツルが設計した立派な西洋風の建物だった。そして、原爆ドームは、当たり前のように残されたわけではない。一人の建築家の思いと壮大な構想によって今もなお残っているのだ。
終戦直後、広島市はあの忌まわしい記憶を消そうと、がれき処理を進め、原爆ドームもその運命であった。ただの廃墟の一つにすぎなかったのだ。
川を挟んで隣接する場所を平和公園にする計画が持ち上がり、設計競技が行なわれた。そこで一等になった案は、公園全体が原爆ドームを一直線に軸の焦点に据えたものだった。敷地対象外の原爆ドームが公園のシンボルとして永遠に壊せないように巧妙に配置されたものであった。そうして、壊されるべき運命にあった一つの廃墟は原爆ドームとなったのだった。
そんな発想をしたのは、丹下健三という建築家であった。彼はその後も東京オリンピックの代々木屋内プール、大阪万博など、国家を象徴するプロジェクトを手掛けた。私は学生の頃、そんな構想を描ける建築家にあこがれて、丹下先生の門を叩き、卒業後弟子入りした。
丹下先生の天才的なところはデザインにあると思われているが、そうではないと私は思う。人間、そして人類に対する思いなのだ。短い期間だったが一緒に過ごさせていただいた中でそう思った。
代々木でも、一番大切にされたことは、たくさんの人が万一の時に一斉に避難できることであり、その結果あの美しい平面形が生まれたし、あるいは、東京国際フォーラムの審査員長をされたときは、何百という応募案の中から、一等案を選ぶのも、大きなホールが複合する中で、避難計画が一番のものを選んだ。
私は、弟子入りしていた時、お台場のフジテレビ本社をデザインした。基本設計案のとき、丹下先生が先輩所員の中から新米の私の素案を選んでくださったのは、あの超高層ビルが何重にも避難できる仕組みだったからだと私は思う。球体に目がいってしまうが、実は、デザインの本質はそこにある。安全という形は目に見えないようでいて実は心に見えている。
(鵜飼哲矢=建築家・九州大学大学院芸術工学研究院准教授)