昭和20年8月9日、6日の広島に続き長崎にも原子力爆弾が投下された。
写真=左は長崎大学医学部の前身である長崎医科大学の旧正門。被爆して左側が傾いているため保護の柵が作られ、誰かが酒を供えている。爆心地からおよそ600mの距離。被爆建造物として多くの観光客が訪れ、修学旅行でもたくさんの学生が見学に来る。
左側の門柱には「長崎醫科大學」、右には「長崎醫科大學附属薬學専門部」と旧字で書かれ、長崎大学医学部の歴史を感じさせる。右に倒れた2本の柱は扉を支える内門柱。当初は金属製だったが、武器製造のため提供し、被爆時はコンクリート製だった。支えていた扉も、金属から木製のものに変えられていたと記録に残る。
「長崎大学医学部創立百五十周年記念誌」によると、角尾晋医科大学長(当時)は東京出張の帰路、6日に被爆した広島を通過し、被災の惨状を目の当たりにした。8日に、10日から休校することが決まっていたという。9日、500余人の教職員学生が犠牲になった。
また当日、付属医院では、入院患者107人を含む300人ほどの患者がいた。患者の死亡者数は50余人で、地下室で動けなかった重症患者は助かったという。
角尾学長も被爆し、後事を最古参の教授に依頼した。教授たちも家族を亡くしていたが、救護活動を優先したと記録されている。
門は、今では正門でなくなったが、依然として長崎大学医学部の出入り口の一つ。大学から附属病院までは、この門を通るのが一番近い。
門をのぼり、学内に入ると、シーボルトの顕彰碑の隣に、角尾学長の銅像を見ることができる。