国家公務員共済組合連合会 呉共済病院 院長 小野 哲也
■日本内科学会 認定医 指導医 ■日本老年医学会 評議員 専門医 指導医 ■日本腎臓学会 専門医 指導医 ■日本透析医学会 専門医 ■日本脈管学会 評議員 専門医 ■米国糖尿病学会 Professional member(Complication) ■日本リンパ網内系学会 評議員 ■日本臨床分子形態学会 評議員
呉市は明治19年に第2海軍区鎮守府が設置されて以降、海軍の重要拠点として発達してきた。呉共済病院は日露戦争の開戦と同年の明治37年、呉海軍工廠職工共済病院として開院した。これは呉海軍工廠設立の翌年に当たり、当時は原則として海軍工廠の職工とその家族だけを診る病院だった。史料によると、当初の看護部長には慈恵看護婦教育所の卒業生が就任したようである。昭和21年以後、豪州兵を中心に編成された英連邦占領軍が中国地方を占領・駐留し、司令部を呉に置いた。しかしその際にも接収を免れ、病院は現在まで歴史が続いている。院長は「兵員ではなく職工の病院で海軍病院ではなかったから残ったのだろう」と推測をしている。昭和20年までは、海軍士官が院長を務めており、会議室には今も軍服を来た歴代院長の写真が並ぶ。
現在の病床数は、一般394床、結核46床。昭和43年より透析に力を入れており、現在も7名の腎臓内科医が透析に従事している。
小野院長の就任以後から、病院は大きく変革をしている。平成21年に地域医療支援病院の承認と訪問看護ステーションの立ち上げを、翌平成22年には広島県よりがん診療連携拠点病院に指定された。平成24年には災害拠点病院に指定され、広島DMATのチームも持っている。「前の院長在任期間の平成18年から診療科目が減り始めました。最大7科減り、医者が十数人減りました。診療科が減ったから、収入も減りました。経営改善のために、できることを最大限やろうと思い、がん診療連携拠点病院や災害拠点病院を取得しました」と院長は語る。
平成19年以前は外来患者も多かったが、今は地域医院との連携を強化し、入院に力を入れているため、外来は以前の6割ほどに減った。紹介率は67〜72%、逆紹介率は100%を超える。また以前と変わらず、救急には力を入れ、HCU6床を救急病棟に設置した。
以前は九州大学の関連病院だったが、今は岡山大学と広島大学の関連病院。距離的には双方の大学の中間地点であるために、両者から「遠い」と感じられており、医師の確保には今も苦戦しているという。「現在医師は増え始めています。今後は特に、救急の観点から小児科、脳卒中を診る観点から神経内科、がん拠点病院の観点から婦人科を、それぞれ強化したい」とのこと。
右側の現病院は、4代前と2代前の院長の時代に建てた。左の建物は、附属の看護学校で、病院の歴史よりも半年古い。以前は、卒業生が無試験で甲種看護婦になれる看護学校のうちの1校だった。病院は現在も看護師教育に力を入れており「国家試験の合格率はほぼ100%」とのこと。
救急に力を入れていることもあり、現在は研修医に人気のある病院の一つ。定員は6名だが、平成25年度は医師臨床初期研修の一次マッチングの第一希望者が15名おり、倍率は2・5倍。倍率だけで見れば、近畿以西のエリアでは1位。全国でも定員5名以上の病院に限れば9位の倍率だ。平成22年には希望者が2人にまで減ったが、麻酔科の石川医長を救急部長にし、研修医教育専任のポジションにしたことによって、翌年より回復したという。産婦人科の研修に関しては、同じ系列の広島記念病院(広島市中区)で、小児科研修は虎の門病院(東京都港区)などで行なうなど、休診している科の研修を受ける提携先もある。来年は定員を7に増やす。
小野院長は倉敷市の出身。末っ子で、二人姉がいる。結婚後も倉敷に帰るつもりで官舎住まいだったが、結局は呉市内に家を建てた。娘は既に嫁ぎ、現在は妻と二人暮し。
透析を中心とした腎疾患が主な専門。医局の先輩で当時内科部長だった4代前の岡田院長に呼ばれ、腎臓の専門医になったが、本当は血液内科を希望しており、院内で最初に急性骨髄白血病を治癒させたのは院長。まだ骨髄移植が始まる前の時代だった。
55歳まで無趣味だったが、透析の青山技師と内科にいた藤原医師に連れられ釣りを覚えた。太刀魚釣りの楽しさがきっかけだという。今は、前もって予定を入れず、朝の天気を見て気軽に投げ釣りに行くスタイル。呉はカレイ、アイナメ、キス、アナゴなどが獲れ、美味らしい。