高齢の父と母が、「死」という言葉をよく口にするようになった。田畑氏の話は、両親をひとりで介護している私に、大きな安堵感をもたらしてくれたように思う。講演の内容を、次のようにまとめてみた。
現代の最新医療は今日死ぬものを5年後に、5年後を10年後に先延ばしするものでしかない。田畑氏は医療の経験から、「ついに病につかまった、死につかまった」と表現する。
私たちは人生の成功を求めて生きている。出世することも平凡な家族を持つこともそれぞれが成功である。しかし、どの道を選ぼうと必ず迎えるのが「死」。
田畑氏が診たある学校の先生が、病の床でなんとか回復しようと努力したが、いよいよ治らないとわかった時、「運命だからあきらめる」と言ったことを紹介し、人生の成功者といえる人でも、死を迎える時には「あきらめる」しかないのか、成功を求めた人生の最後が不幸の完成でいいのかと憤(いきどお)る。
私たちは誰でも死ぬことを知っているが、これは知識、分別というもの。「知恵」であるという。
「もったいない」という日本語が話題になったことがあるが、それを英語では「投げ捨てるには良すぎる」と表現する。すると日本語の「夫は私にはもったいない人です」が「夫は投げ捨てるにはまだ使える」という意味になってしまう。そうではないところに「もったいない」という日本語の深い意味があるという。この言葉の背後にある見えない領域を感じとる、それが仏教の「智慧」だという。
私たちは今日生きてるように明日も生きていると、漠然と思っている。死のことは思い至らない。生と死は一枚の紙の表裏。紙の表だけを求めることはできないように、生きていることだけを得ることはできない。
仏教は、この背後にあるものを感じとることだと田畑氏は諭す。それは体でわかることであるという。体でわかったならば、自然と感謝の気持ちがわいてくるという。
人はかならず死ぬということを体でわかった時、私たちは「あきらめる」ことしかできなかった死を「ひきうけること」ができる。人生の最後を不幸の完成から成功の完成へと救う。
「死にゆく道しるべを失った日本文化」。在宅で多くの人を看取ってきた宮城県の岡部健医師が表現したという言葉。その中で仏の教えにその道しるべを見出だす時「死を越える」ことの意味を理解できる。田畑氏は公開講座の参加者にそう呼びかけた。