―7月から教授― 若い人を育て守備範囲を広げたい

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久留米大学医学部内科学講座心臓・血管内科部門主任教授 福本 義弘

1991 九州大学卒 九州大学医学部附属病院研修医 1993 九州大学医学部研修生 1995 北九州市立医療センター循環器科医師・副部長 1997 九州大学医学部附属病院医員 1998 ハーバード大学ブリガム・ウィメンズ病院研究員(循環器科) 2001 九州大学医学部附属病院医員 2003 同助手 2004 九州大学病院講師 2005 麻生飯塚病院医長 2006 東北大学病院助手 2008 同講師 2011 東北大学大学院医学系研究科准教授 2013 久留米大学医学部内科学講座心臓・血管内科部門主任教授

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久留米大学医学部内科学講座心臓・血管内科部門主任教授 福本 義弘

 久留米駅から久留米大学までは徒歩で15 分ほど。昭和30 年に現㈱ブリヂストンが市に寄付した「ブリヂストン通り」という並木道は、福本教授もよく歩くという。この通りは久留米城の三の丸が在ったあたりで、久留米大学医学部は福岡の4つの医学部中唯一、旧城下町にある。福本教授がいた東北大学医学部は、青葉城まで車で5分ほどらしい。

―ご出身の山口県柳井市は、金魚の提灯が駅に飾られている町ですね。

 年に1度か2度は帰省します。電車で30分かけ岩国の中学高校に通学し、その後、広島で1年浪人した後、九州大学に入学しました。志望大学は関西を意識していたのですが、気が付いたら九州・福岡に来ていました。

 振り返ると、九大の循環器内科に入局したことが私にとって好転の機会だったと思います。性に合っていたのですね。前教授の竹下彰先生が平成2年7月に教授に就任されたのですが、私はその翌年入局しました。また、私の指導医だった下川宏明先生が留学から帰られたばかりの頃でした。研修医の私は、この偉大なお二人から鍛えていただきました。

 留学期間の3年を除き、大学入学から40歳までの間、福岡におりましたから、だいぶ長いですね。しかし、ここ久留米には学会などで来る機会が、まれにあっただけでした。ですから、今はもっぱら、おいしいお店などの情報を医局の皆さんに聞いて、久留米の楽しみ方を覚えている最中です。赴任前の不安をよそに、明るくて良い人ばかりなのですぐに溶け込めました。先日、佐賀県嬉野に医局旅行に行ってきましたが、それはそれは盛り上がりましたよ。

―東北大学に移った経緯は。

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 九州大学循環器内科の助教授だった、指導医でもあります下川先生が、東北大学医学部循環器内科学教授になられ、私も東北で頑張ってみないかと声をかけて頂き、仙台へ移ったんです。福岡を離れることに悩みましたが、美味しい物や、東北という初めての地への興味も相まって赴任しました。結果、本当に行って良かったと思います。

 東北大学の循環器内科は3つの臨床グループに分かれています。狭心症や心筋梗塞を主とする領域。不整脈やペースメイカーの手技を研究する領域。私はそれ以外の、肺循環や難治性の心不全を主とするグループでした。あまり人気のない領域のため私がその中心となり広めて行くことになったのですが、下川教授が私を仙台へ呼んで下さった理由はここにあったのかもしれません。おかげさまで、丸7年この領域を中心に研究や診療に携われたことで、新しいことへ挑戦する意欲、専門性を身に付けることが出来ました。

―東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)を経験されていますね。

 9・11(アメリカ同時多発テロ)の時も留学先のボストンで、大変な混乱を経験しました。ボストン発の旅客機2機がハイジャックされましたから、それはもう大騒ぎでした。貿易センタービル自体はマンハッタン島ですから、現地にいたわけではなかったのですが、異国での思いもよらぬ出来事で、大変な動揺でした。しかし、やはり直接降りかかった東日本大震災は、私の人生の中でも大変大きな出来事です。

 講演会で当時の話をしてほしいとよく言われます。医師として、研究者としての立場から、「震災というストレスをきっかけに心不全や心筋梗塞が増えた」という内容を話しています。実際、心筋梗塞は微増でしたが、心不全は平年の倍ほどに増加しました。

 地震が起きた時、私は東北大学病院でカテーテル検査をちょうど終えたところでした。病棟には機械に繋がった重症の患者さんもいました。余震で機器類が動かないように押さえたり、患者さんをおぶって上階へ移動したりと、これまでにない多くの体験をしました。通常あるはずの器具も食事も、時間が経つほどに不足してくるため、とても入院を受け入れられる状態ではありませんでした。ですから、定期入院や検査入院の方はキャンセルし、急患だけを受け入れる体制となりました。なんとか、大学病院の機能をフル活用し乗り切ったわけです。

 ですが、大学以外の病院・診療所が大変です。近隣地域や志津川・石巻、気仙沼といった沿岸部の被災地域各地に大学から医師が派遣されました。

 その他、DMATの先生方が全国から集まって下さいましたので、これにより、人手不足についてはなんとか持ちこたえることが出来ました。

 私は、仙台に赴任した当初から、南三陸町の病院に週1回診療に行っていました。震災直後は、道路が寸断され、ガソリンが手に入らないため、現地へ赴くことが出来ませんでした。その後、自衛隊の方が流された橋に代わる簡易の橋をくんでくれたおかげで、やっと診療を再開することが出来ました。震災から1か月が過ぎた頃でした。

―九州には少ない、大震災の情報を持った医師ですね。

 二度目は嫌ですけどね。

 福岡西方沖地震の時は、学会の為に福岡を離れていました。

 建物を頑丈に作ることも大事ですが、自然の脅威、震災には勝てません。いかに逃げて身を守り、その後、いかに復興するかということを考えておかねばならないと思います。備えあれば憂いなし...、物だけでなく、心と知識の備えも必要ですね。

 私は、東日本大震災を経験しましたが、全国から薬剤や食料の援助がありました。ガソリンはなかなか来なかったですけれど、電気、ガス、水道といったライフラインも思ったより早い時期に復旧しました。医療そのものは、電気がなくても何とかやりきることが出きました。病歴を聴くことや聴診器の診察だけでも急場はしのげます。

 若い医師は機器頼りだと非難もされますが、震災のような非常時ですので、普段使用している機器類が使えないとなれば、医師を志した人ですから、その場になればなんとかするものです。自分の手の感覚や聴診器から聞こえる音だけが頼りですから、普段から、診断の腕を磨くことは重要ですね。

―循環器内科に入った理由は。

 癌はちょっと苦手だな、と思っていたのです。そして、膠原病の採血項目が多いのも苦手でした。それで、癌と膠原病を扱わない科を探したところ、「循環器内科」がそれだったというわけです。しかし最近、循環器内科も裾野が広がってきました。

 私は肺循環や肺の血行動体を診るようになりましたが、それらは膠原病と密接な関係があります。また、血管肉腫や心臓腫瘍も他より多く、東北大学では症例報告いたしました。嫌で避けたはずが、今では、循環器内科の中では膠原病と癌を診ている方でしょうね。他科の先生に教えて頂きながら覚えました。

―久留米大学に来た経緯は。

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 去年秋、久留米大学で教授選が行われるという情報を聞き、下川先生に背中をおして頂き、応募しました。教授選考会を経て、選ばれました。

 久留米大学への応募書類は、履歴書をはじめ、これまでの論文、学会発表など、ありとあらゆる業績を送るものでした。書類審査で何人かに絞られプレゼンを経て、翌週投票が行なわれました。

 5月15日にプレゼンをし、翌週22日が投票日でした。7月1日付けで教授になりましたから、短期間での引き継ぎや久留米への引越しは大変でした。決まるまでは何の準備もしていませんからね。

 東北の方々にお別れをする時間も十分になく、挨拶できないままの患者さんもいましたから、非常に残念です。教授に選ばれたことを多くの患者さんが喜んでくださいましたが、中には、長年診て頼りにして下さっていた患者さんには、寂しい思いをさせてしまったようです。

 東北大学では、多くの患者さんを担当していましたが、久留米大学に着任してからは、病棟の患者さんの主治医になることはなく、外来の患者さんを何人か診察しています。前任の今泉教授がご高診されていた患者さんを引き継ぐのが本来なのですが、教授不在の時期が3か月あったので、他の先生達がすでに診てくださっています。

―久留米大学は「循環器内科」ではないのですね。

 前任の今泉勉教授の時に第3内科から名称が変わり、現在は「心臓・血管内科」です。循環器内科という名前に慣れすぎていて、最初は少し言いにくかったですが、今は慣れました。心臓・血管外科と対になって、患者さんにも分かりやすい良い名称だと思います。福岡大学もそうですし、国立循環器病研究センターも「心臓血管内科」ですから、そう珍しいわけでもないですね。

―9階の教授室から筑後川が望め、良い眺めですね。

 今泉教授が使われていた部屋です。

 実は、平成17年にこの教授室に来たことがあります。大動脈のステント手術を見学する目的で久留米大学に来ました。その折に今泉教授を訪ねました。今泉教授は、九大の先輩で、久留米大学の教授になられる前は外来長、当時私は研修医でした。その時は、まさか自分がここにいることになろうとはもちろん思わなかったですね。

 まだ東北大学への赴任が決まる前のことで、飯塚病院の心臓血管外科でステント手術を始める準備のために伺いました。結局、ほどなく東北に赴任したので、その後の立ち上げまでは携われませんでした。引っ越しはいつも、なぜかバタバタです。慣れないですね。学会出張は慣れていて、私の荷物は少ないので有名なのですが。

―趣味はありますか。

 医学部時代はサッカー部に2年在籍しました。

 東北大学では、よく病棟やカテ室、秘書室から呼ばれるため、学内を歩き回っていました。平均1日1万歩以上歩いていました。こちらに来てからは、そんなふうにPHSで呼ばれることがなくなりましたから、自主的に歩いています。カテ室で困ったことがあった時は、どんどん呼んでくれたらいいんですが、教授はやはり呼びにくいのかもしれませんね。PCIという普通の手法はみんな上手なのですが、他の特殊な作業の時や難しい時もあるんですよ。

―今後の展望は。

 私が東北大学で診ていたのは、重症の心不全や肺循環の病気など、一般の循環器内科の先生が苦手とする分野です。今後は「これまで久留米大学で診ていなかった病気が診れます」とアピールして、久留米大学に多くの患者さんを集めたいですね。さらに、若い人を育て、もっと教室の守備範囲を広げていきたいですね。

 ここは若い人が多くて、素直で、良く勉強する人がそろっているので、これからが楽しみです。やりがいがあります。


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