熊本地震から9カ月 得た思いや熱意を継続
人口約3万9000人のみやま市にあり、一般病棟88床、療養病棟30床、回復期リハビリテーション病棟40床、地域包括ケア病棟41床の計199床を有する医療法人弘恵会ヨコクラ病院。2014年に現在の場所に新築移転、2016年4月には地域災害拠点病院の指定を受けた。熊本地震時の同病院の対応や今後の展望を、横倉義典院長に聞いた。
―熊本地震が起きたときの様子を聞かせてください。
2016年4月14日の「前震」の時、このあたりは震度4。病院に損傷はありませんでした。チーム編成に時間がかかりDMATは待機指示となり、午後に熊本へ向けてAMAT(全日本病院協会災害時医療支援活動班)は出動したものの、その日のうちに戻ってきていました。
でも、私はなんだか胸騒ぎがして、その日から病院に泊まり込んでいました。すると16日未明、「本震」が発生。当院でも震度5強の揺れを感じました。かなり長い時間、揺れているように感じましたね。この病院でも、食器が落ちて割れたり、ものが倒れたりしました。
すでに準備していたDMATが夜明けを待って被災地に向け出発。益城町から熊本市内へと移る患者さんの搬送などに当たりました。
―支援物資の一時集結病院にもなったそうですね。
4月16日、全日本病院協会から支援物資の受け入れ、送り出しの拠点となる一時集結病院の役割を依頼されました。同18日になって拠点が県医師会館に変更となったものの、物資が続々と届き、リハビリ室の3分の1を埋めるほどに。物資が届く、送り出す、届く、送り出す...。その繰り返しで、そのときどきに手の空いている職員が総出で対応していました。
一般的に被災地支援というと、被災地に行って支援した人に目が向きがちですが、それだけではありません。物資集積所としての仕事をした病院スタッフ、通常通り入院患者さんへの対応をした病棟スタッフなど、みんなの努力があってこそ成り立った支援だったと思っています。
―ご自身も熊本入りされたのでしょうか。
4月18日から21日まで、JMAT(日本医師会災害医療チーム)として被災地入りしました。電気は通っている場所とそうでない場所があり、水道は復旧前。混乱し、情報は錯綜(さくそう)していました。
今回は、かなり早い段階でJMATが入ったということもあり、DMATとの役割分担・連携や全体のコントロールが難しかったのではないかと感じますね。ただ、私たちが入った熊本市の中央区役所の対応がすばらしく、活動は非常にしやすかったと感じています。
「避難所へ行ってほしい」という依頼を受けて、医療支援班として避難所を巡回。日中、避難所にいるのは高齢者または乳児など小さな子どもとそのお母さん。「薬を置いてきてしまった」「恐怖心が拭えない」などの相談に応じることが多くありました。
私たちが到着するまでは、保健師さんたちが1人で何カ所もの避難所を担当し、相談を受けたり、支援が必要な人をピックアップしたりして、支援体制をつくっていってくれていました。かかりつけ医、薬局の方々もがんばって、毎日、開業する診療所や薬局が増えていきました。
―被災地で活動する中で、見えてきた課題はありましたか。
私は2011年の東日本大震災の際にも支援に入りました。あのときは、津波で何もかも流され、高齢者の方も数多く亡くなってしまいました。
今回の熊本地震の際は高齢避難者への対応の難しさを痛感することにもなりました。
避難所には、東日本大震災の時と比べると、かなり高い割合で高齢の方がいました。一人暮らしの場合、壊れた自宅で片付けをすることも難しい。オムツを利用している人もいましたが、高齢者のオムツを替えられる人もほとんどいませんでした。認知症がある人は環境の変化でBPSD(周辺症状)が出ることもありました。
避難所内が高齢で介護を必要とする人と、そうでない人、というように分かれてきてしまう場所もあったのです。
そんな中で、ケアマネジャーさんが避難所をいくつも回り、自分が担当していた方を見つけにきている姿を目にしました。ご自身の自宅もぐちゃぐちゃなのにも関わらず、です。すごいと思いました。その方たちのおかげで、高齢の方は空きのある施設への緊急入所などができていきました。
みやま市の高齢化率は33.1%(2015年1月現在)。高齢避難者の問題は、他人事ではありません。
きわめて難しい今後の課題ですが、一番、確実なのは高齢者の方を被害が起きていない地域に送り出すことでしょう。本人が嫌がることも多くありますが「必ず迎えに行くから」と説得して、地域が落ち着くまで安全な場所へ避難していてもらう。ただ、高齢者の方は、いつ帰ることができるのかわからないという不安があるでしょうね。今は、避難先から戻る際に自費・自力で戻らなければならないというのもネックになっていると思います。
今、在宅への流れが加速しています。だからこそ余計に、在宅で暮らす高齢者、認知症の人を災害時にどう支援するのかを、制度化していく必要があると思います。
―地域の災害拠点病院として、今後への思いを。
当院が地域災害拠点病院になったのは、熊本地震発生のほんの少し前です。東日本大震災で「何かあった時、この地域の医療はこの病院が守らなければならない」と危機感を強めたことがきっかけとなりました。
さらに2012年7月の九州北部豪雨で当院近くの橋が通行止めとなり、久留米大学病院(福岡県久留米市)や聖マリア病院(同)への道が閉ざされたことも、その思いを強くしましたね。
屋上ヘリポートを備えた新病院建設計画が進んでいた時期だったため、計画を一部変更して災害拠点病院の要件を満たすよう、備蓄タンクなども備えました。
地域災害拠点病院になったこと、熊本地震後、支援物資の一時集結病院となったことで、職員の意識が変わったと感じます。「人の役に立つ仕事をしたい」という気持ちが強くなった。よかったと思います。
ただ、人は時間が経つと忘れてしまいます。その思いや熱意を継続し、今後につなげていかなければならないと思っています。