「産業医」の確立、養成に尽力
「産業医科大学に赴任して33年。この間、産業医を取り巻く環境は大きく変わりました。卒業生たちが、企業の産業医などそれぞれの立場で先頭に立ってがんばっている姿を見ると、本当にうれしく思います」
国が定めた産業医制度の確立に貢献したとして、このほど西日本文化賞を受賞した産業医科大学(北九州市)名誉教授の大久保利晃氏はそう語り、目を細める。
1972年(昭和47)年、労働安全衛生法の制定によって、誕生した「産業医」。産業医科大学は優れた産業医の養成などを狙いに、1978年、設立された。
慶応大学の医学部を卒業し、公衆衛生の道を歩んでいた大久保氏は83年、恩師である土屋健三郎・産業医科大初代学長の招きで、同大環境疫学教室教授に就任。併せて、大学の産業医養成講座のカリキュラム策定を任された。
特定の病気を扱うわけではなく、体全体、そしてメンタルヘルスの知識が必要で、しかも健康を維持し、病気を予防・早期発見する能力も求められる「産業医」。その養成のため、実習を含む200時間にも及ぶ受講内容を作り上げた後、日本医師会認定産業医、日本産業衛生学会認定専門医(その後、専攻医へと移行)の修練コース作りにも関わった。
「大学で見ている若い連中が活躍できる素地を作る。それが自分の仕事だという思いがあった」。議論が長期化し、できあがりまで5年を要したカリキュラムもあった。
産業医は、産業構造、労働環境の変化に伴い、その役割を広げてきた。弁護士などのように独立開業し、何社もの顧客を抱える産業医も少しずつ増えている。
昨年12月からは、労働安全衛生法の改正によって、従業員50人以上の事業所で「ストレスチェック」が義務化。データ管理や面談など、産業医の業務量も大きく増えると予想されている。
しかし、「産業医の数はまったく足りていない」と大久保氏。産業医科大学以外の大学から産業医を輩出する活動を始めている。
さらに産業医があくまで法律用語で、養成講座受講などが義務ではないことから、質を保ちレベルアップする活動も開始。一方で、現在顧問を務める放射線影響研究所(広島市)では、福島第一原発の事故による作業員の影響調査研究の陣頭指揮もとる。
「まだまだやる仕事はたくさんある」。そう語った時、温和なまなざしが、一瞬、鋭くなった。