医療事故と法律(10)
いうまでもないことですが、医療機関で人が死んだというだけで医療従事者が刑事訴追されることはありませんし、民事責任を問われることもありません。そのことを、法律の言葉で説明してみたいと思います。
刑事責任で問題になる業務上過失致死傷罪の条文は、「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、五年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する」というものです。民法上問題になる不法行為の条文は、「故意又は過失によって、他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」というものです。どちらも、過失、すなわち必要な注意を怠ることが、責任発生の条件になっています。
ここで「過失」とは、注意すれば認識できたはず(これを予見可能性といいます)のことを不注意のために認識しない心理状態をいいます。だから、予見可能性のない結果については、過失が否定され、刑事責任も民事責任も発生しません。
過失が否定されて無罪になった刑事事件として、東京女子医大事件があります。この事件では、心臓手術中の人工心肺操作を担当した医師に操作ミスがあったかどうかが争われましたが、裁判所は、人工心肺回路内に発生した水滴等でガスフィルターが閉塞し、脱血不能の状態に立ち至るといったメカニズムを事故前に認識することはできなかったとして、担当医師に無罪を言い渡しました。
一方、有罪になっている刑事事件は全て過失が認定されているわけですが、分かりやすいケースでは埼玉医大抗がん剤過量投与事件があります。これは週単位で記載されている抗がん剤治療のプロトコルを日単位と読み違え、週一回の間隔で投与すべき抗がん剤を一二日間連日投与し、副作用による多臓器不全で死亡させてしまったという事件です。投与前にプロトコルを熟読しさえすれば防げた過量投与であり、典型的な過失例といえます。
また、過失が認められても、責任が認められるとは限りません。業務上過失致死傷罪の条文にも、不法行為の条文にも、「よって」という言葉が含まれています。これは、死傷という結果に対する責任が認められるためには、それが過失によって発生したものであること、すなわち「因果関係」が必要であることを表現したものです。
過失と結果との間に因果関係がないとして無罪になった刑事事件には、杏林大学割り箸事件があります。裁判所は、救急車で搬入された四歳児の診察にあたった当直医に、割り箸刺入による頭蓋内損傷の可能性を想定して、受傷時の状況について問診を行い、ファイバースコープによる上咽頭の観察及び頭部CT撮影による検査を行うべき注意義務を認めつつ、仮に割り箸刺入を発見し、直ちに脳神経外科医に引き継いだとしても、患者を救命可能性は極めて低かったとして、過失と死亡との因果関係を否定して無罪を言い渡しました。
過失が認められ、かつ、過失と結果との因果関係が認められた事件のみが有罪となります。前掲埼玉医大事件でいえば、死亡原因となった多臓器不全は抗がん剤の副作用であり、過量投与がなければそのような状況には陥らなかったはずだとして因果関係が肯定されているわけです。