ピンチをチャンスに激動の10年間を乗り超えて
■病院の歴史
当院は1940(昭和15)年、国立結核療養所として創設されました。1945(昭和20)年ごろの記録では病床数が千床で、当時は全国でも有数の大規模な医療施設でした。しかし、終戦後、結核患者の減少にともない、1970(昭和45)年5月に重症心身障害患者の受け入れを始め、1997年からは神経難病患者の受け入れも始めています。
2012年に新しく建て替えた入院病棟は、1〜2階が重症心身障害者病棟、3〜4階が神経内科病棟、5階が児童に特化した精神科病棟(発達障害など)、6階が結核・内科・呼吸器アレルギー科のユニット病棟とフロアごとに分かれています。児童精神科については、1981(昭和56)年に専門医の先生が来られて診療を開始しています。
■児童精神科について
昔は、ぜんそくやネフローゼ治療のために入院しながら勉強しなければならない子どもたちが大勢いて、県立天竜特別支援学校に通いながら病棟で生活をするスタイルが1966(昭和41)年ごろから始まりました。
県立天竜特別支援学校のルーツは天竜病院です。結核療養所だったころは千床ありましたから、入院患者の中には子どもも教師もいて、長い院内生活の中で、入院中の教師が病棟で寺子屋のようなものを開きました。
そのころの当院は国立療養所天竜荘という名で、当時の荘長が県の教育委員会に働きかけて、やっと赤佐小学校の分校ができ、その流れで県立天竜特別支援学校が設立されました。結核が減った後も、子どもの慢性腎臓病・喘息で家に帰れない子どもたちが、病棟から学校に通いました。現在はおもに、日常生活がうまく送れない発達障害などの子どもたちが通っています。
子どもたちにとって、夜間の生活の場としての機能が多かったのですが、新病棟の完成を機に方針を変え、入院から3カ月後には退院してもらうようにしました。これは、「病棟は生活の場ではなく、治療の場であったほうが良い」という考えからです。
■MEW(みゅう)の丘
もともと、障害者支援や福祉サービスなどを幅広く行ってきた社会福祉法人天竜厚生会ですが、3年くらい前からは、より密な連携が取れるようになりました。そこで当院がMedication(医療)を、天竜特別支援学校がEducation (教育)を、天竜厚生会がWelfare(福祉)を担い、連携をとりながら、患児の教育や就業支援を行うことにしました。それぞれの頭文字をとって「MEWの丘」という名にし、災害が起きた時などにも、おのおのの役割を果たして助け合える体制を構築中です。
■10年間の紆余曲折(うよきょくせつ)を乗り越えて
2005年、院長に就任当初は、国立から独立行政法人に変わったばかりで公務員のころの考え方が抜けず、みんなの頭が固かったことを記憶しています。
例えば、人工呼吸器を付けたALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんを初めて受け入れることになって、私が病棟に行くと「先生、これはうちでは無理ですよ。事故が起きた時に誰が責任をとるんですか」と言われました。その時は「責任は私がとりますからお願いします」ということで何とか受け入れてもらいました。それぐらい変化を恐れる組織でしたが、今では100人以上の神経難病の患者さんが入院しておられます。
医療はサービス。頭が固くてはいけません。私は職員たちに「変化」という言葉を盛んに言い続けてきました。今では病院の仕組みが変わっていくことに対して抵抗を示す人はいなくなりました。その結果か、国立だったときは赤字続きだった経営状態も、みんなの頑張りで黒字転換できました。
■医師としてのやりがい
浜松医科大学の1期生として卒業してからはまず、研修の時にたくさんの症例を見ることができました。また、伸び伸びと研究させてもらえましたので、いろいろな論文を書くことにやりがいを感じていました。
もう1つは、激動の中で当院の院長に就任し、ピンチをチャンスに変えることができたかなということです。ハード面の整備を行い、児童精神科をはじめとする特化した治療を行うことで、世間に評価してもらえる組織になりました。当院の新しい方向性を作ることができたことにやりがいを感じています。
もちろんそれには、職員のみなさんが私の考えを理解し、協力してくれたことが大きいですね。研究も同じで、実際に手を動かしてくれる人たちが、ちゃんと理解して研究してくれることが必要です。
職員が頑張ってくれたことで業績が上がっています。今後は、より質の高い医療を提供できるように、ハード面の整備をあと3年くらいでひと段落させたいですね。病棟以外の外来診療棟も全面的に建て替えて、2017年7月竣工予定です。特化している診療科に人員的にも資金的にも投資して、より良いものを作っていきたいと思います。