乳腺外科医は抗乳腺外科医は抗がん剤の専門家がん剤の専門家

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独立行政法人国立病院機構 四国がんセンター 名誉院長 高嶋 成光

高嶋 成光 (たかしま しげみつ) 1968 岡山大学卒 同大学医学部第二外科講座入局 国家公務員共済組合連合会高松病院医師 1970 松山病院外科医師 1976 同外科医長 1992 四国がんセンター臨床研究部長 1993 同副院長 1997 同院長 2009 同名誉院長

│四国がんセンターでの勤務が長いですね。

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 岡山大学を卒業して2年目の昭和45年に、前身の国立松山病院に来ました。以後、40年勤めています。

 我々の1年先輩が卒業した時はまだインターン制度(医師免許の受験資格を得るための診療実施修練)がありましたが、我々が卒業する時に廃止されました。それで1年先輩と一緒に岡山大学の第二外科に入局しました。当時第二外科は心血管の治療が盛んで、私も心臓の外科医になるつもりでした。

 一方、派遣先の当院は、昭和41年に「四国地方がんセンター」が併設され、がん治療に力を入れ始めたころでした。それで私も、がんの医者として仕込まれたわけです。このころはまだ救急車を受け入れる総合病院でしたが、昭和54年には現在の院名に変更して、次第にがん治療だけを診る病院になっていきます。

 日本乳癌学会の専門医になるには、学会認定施設で100例の診療経験が必要です。当院は年間400例の症例数があり、取得したい先生にはおすすめです。

 現在乳腺外科には6人おり、もちろん全員が専門医を取得しています。みんな私の弟子筋です。特に、大住省三がん診断・治療開発部長と青儀健二郎臨床研究推進部長の2人は、どちらも全国で通用する腕を持っていると思います。

 岡山大学の土井原教授(右6面に特集記事)は、若いころ私をよくサポートしてくれました。その前は埼玉医大乳腺腫瘍科の佐伯俊昭教授が、私を助けてくれました。病院を巣立った先生たちが、その後活躍する姿を見ると嬉しくなります。2人は当時から優秀な外科医で、ずいぶん助けられたものです。

乳腺外科になったきっかけは。

 私が来た時は二代目の三木直二院長のころで、小さな病院だった国立松山病院が大きくなったのは、この院長がいたからだと思っています。当時、成りたての外科医は、虫垂炎やヘルニアの手術しか任されないのが一般的でしたが、積極的に手術をさせてくれたので、若い外科医が集まりました。私も最初の執刀は赴任直後で、早期胃癌の患者さんでした。三木院長は岡山大学第二外科の先輩で、乳腺と甲状腺の外科医です。この院長に手ほどきを受けたのが、私の乳腺外科医としてのスタートでした。

 院名が国立四国がんセンターに変わるころ、臓器別に担当を決めようということになり、私は乳腺外科に指名されました。外科医として乳癌の手術はあまり面白みを感じず、嫌だなと思いましたが、院長の命令で決まったので仕方がありません。当時は年間30例ほどしかなく、消化器癌の手術もできましたので、あきらめたように思います。しかし次第に症例数は増え、年間100例を超えると専属になりました。甲状腺癌も診ていましたが、こちらは耳鼻科に頼み診てもらうようになり、以後院長を辞めるまで乳癌を診続(つづ)けました。

 私がかかわった乳癌の患者さんは、5000人を超えています。

 大学病院ではなく第一線の病院ですから、手術は多くできました。多くの乳癌を診るうちに、手技とは別の面白味があることに気付きました。

乳癌治療の面白さは。

 日本の乳癌治療の問題点は2つあります。一つは検診率が低いことで、もう一つは一般外科が診療を担当し、「乳房を切り取れば治る」と考えられていたことです。

 しかし、実は手術だけで簡単に治る病気ではありませんでした。再発の多い病気で、薬物療法が重要だということが分かり、抗がん剤についても高度な知識が必要です。本来外科医はそういう知識が不足していますから、副作用を恐れて量を減らしたり、期間を短くしてしまいます。外科医であっても、高い内科的知識を要求されるのが、乳癌治療です。そういう意味でがん治療の最先端を走っているのが乳癌で、新しい治療がどんどん開発される面白みがあると思います。

 乳腺外科医は、抗がん剤の専門家でもあるんですよ。手術よりも重要かもしれません。

院内の乳腺外科の発展について。

 三木院長は昭和57年にお辞めになり、以後しばらくは私一人で乳癌を診ていました。三代目の楠本五郎院長は国立呉病院(現呉医療センター=呉市)の放射線科出身です。乳癌は放射線治療も多く、お世話になりました。阪大出身ですが、広島大学原医研外科の服部孝雄教授と親しい院長で、外科に広島大学から優秀な医師を呼んでくれ、乳癌治療の助けにもなっています。広島大学から外科に最初に来て下さったのは、現在広島市立安佐市民病院(広島市安佐北区)院長の多幾山渉先生でした。以後当院は広島大学出身の先生が増え、活気が出ました。

 後に楠本院長の膵臓癌を私が執刀したのですが、すでに肝臓にまで転移があり、治すことはできませんでした。院長は術中放射線治療の導入に熱心でしたが、当院のその1例目がまさか本人になるとは、自身も思わなかったでしょうね。

 私は院長になった後も乳癌に関わり続け、JCOG(日本臨床腫瘍研究グループ)の乳癌グループ代表になりました。それで当時、当院が中心となって乳癌の臨床試験が行なわれました。今でも有力な施設の内の一つとして貢献しています。日本の乳癌治療で使われるほとんどの抗がん剤の開発に、当院は関わっているんですよ。

 また平成12年に厚生省がすすめた、乳癌診療ガイドラインを作る事業にも、主任研究者としてたずさわりました。単なる経験論ではなくEBMが求められ、苦労もありましたが日本の治療を前進させたと思います。この時国内の200人を超える優れた専門医が、2年間松山市に来て勉強しましたから、院内の医師にとって、良い作業の機会でもありました。診療の標準化は全国の医師にとっての大きな助けになり、現在は日本乳癌学会に引き継がれ毎年改訂されています。

院長としての仕事は。

 私の一番の仕事は、病院の移転でした。もとは松山城の中にあったのですが、公園を整備するために出なければいけなくなり、当時の中村時広松山市長(現愛媛県知事)をはじめ、多くの方の尽力で現在地に移転することができました。新築移転し、乳癌治療に限らず、多くの癌治療で機能的に動けるようになり、病院の発展に寄与できたと思います。

 私は院長として、副院長にも恵まれました。特に国立がんセンターと人事交流をし、今では帝京大学の教授になられた江口研二先生に5年間副院長として来ていただきました。その後同じく国立がんセンターから副院長として迎えた新海哲先生は、私の次の院長で、今では当院の名誉院長です。新しい考え方や方法を導入することになりますし、人事交流は病院を良い方向に導くことが多いと思います。

 当院は国立病院機構ののがん政策医療ネットワークの基幹医療施設で、愛媛県のがん診療連携拠点病院です。

 以前は乳癌を診る病院は少なかったので症例が集中しましたが、地域がん診療連携拠点病院とがん診療連携推進病院が今は熱心に診てくれていますので、県内の乳癌の患者は増えていますが、余裕のある治療が可能になっています。


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