社会医療法人共愛会 下河邉智久理事長
社会医療法人共愛会 下河邉智久理事長
戸畑共立病院救急センターの様子と、2010年ベストスマイル賞を受賞した看護師の福田弘美さんと満永悠太郎さん
戸畑共立病院に導入されているサイバーナイフ。ほかにも四次元放射線治療装置など先進のハードを多く揃える。「ここですべての病気を治したいから」と理事長。
民間病院が発展しながら100年の長きに渡って続くのは並大抵ではない。その理由を冒頭に聞いた。すると下河邉智久理事長の返事はこうだった。
「100年前の今日も、この地域の人たちの病気を治そうと懸命になっている人たちがいた。その毎日の積み重ねが今日まで続いただけです。皆がいなければ100年はなかったのだと、今の職員に言っています」
明治45年(1912)、熊本出身の下河邉直熊がこの地に下河辺共立病院を創設、二代目院長下河邉舜一、三代目院長宗典郎、四代目院長下河邉智久(現理事長)、五代目院長下河邉正行と引き継がれてきた。大正、昭和という大激動の時代を経て、平成24年4月、戸畑共立病院を中心とした社会医療法人共愛会として100周年を迎えた。
隔世の感という言葉よりもっと長い100年で、変わらなかったものは3つあるのだろうと、記念誌「戸畑病院百年の物語」をめくりながら思う。1つは各院長の医療への思いの深さ、2つ目は現場の医療者のひたむきさ、3つ目は院長と現場の信頼関係の強さである。
写真はうそをつかない。「百年の物語」に掲載された幾枚ものスナップ写真に、この3つが強く感じられる。「チーム医療」はずっと前から始まっていたのである。
むろん大きく変わったこともある。「インターネットで当院を知った若い医師たちが集まってくれることです。いろんな大学の混成チームですが、患者を中心に、とてもうまくいっているようです」と理事長は語る。
さらには毎年10人前後の医師やスタッフをアメリカ研修に送り出している。それを10年以上続けているという。
「アメリカの医療の表と裏を実際に見てもらうことで、わが国の皆保険制度の素晴らしさを知ってもらうためです。日本に戻ってきて行動が変わる職員は多いです」ここ数年は渡米する前に研修病院や研究課題を決めさせ、帰国後は徹底的にディスカッションさせているそうである。
―100周年記念の行事はされたのですか。
「6月にジャーナリストの櫻井よし子さんを北九州芸術劇場にお招きして市民講座を開きました。第二部は元厚生労働副大臣の西川京子さんとRFO理事長の尾身茂氏の対談。日本の現状や地域支援医療がとてもよく分かり、参加した方からお礼の便りもいたきました」
―100年も続けば、この地域にあって当然のように思われるんでしょうね。
「そうなりたいですし、今現在もそれを目指しているところです」
―これからの戸畑共立病院のあり方は。
「足りないところは県央の大きな施設でバックアップしてもらいますが、たいていのことはこの地域でなんとかできるというのが理想です。医療と介護、福祉を分けて考えるのではなく、トータル・コミュニケーション=連携というとらえ方です。そうすればお互いのポテンシャルも高まります」
―総合的な見方と専門的な関わり方ですか。
「いかに優れたハードがあっても人がいなければ役割りを果たせない。やる気のある専門家がまずいて、彼らが望むハードなら、こちらは銀行に土下座する覚悟はいつもできています(笑)」
―院内に飾られている熱帯魚の写真はご自身で撮られたそうですね。
「年に2回、5月と8月に石垣島でスキューバダイビングしています。頭を空っぽにして地元の人たちと泡盛を飲むのは楽しいですね。海の中に潜りながら、これからの1年をどうやっていこうかと、そんなことをぼんやり考えたりもします」
100年記念誌「百年の物語」を広げると、職員のボウリング大会や海水浴、運動会や野球大会などに、戸畑の100年とも言える懐かしい時代がうかがえる。テレビドラマ「大都会Ⅱ」の撮影場所にも選ばれて、石原裕次郎、松田優作、そして丘みつ子さんも、下河邉舜一理事長との記念写真に収まっている。そしてほかのページには今の様子、若い医師や看護師、技師やスタッフ、介護するボランティアの輝く表情を載せている。18床から218床へ。その100年のあいだには無数の笑顔と汗、そして涙が流 されたに違いない。