10年先を見て進路を決める

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国家公務員共済組合連合会 広島記念病院 病院長中井 志郎

1970 広島大学卒 同医学部第一外科入局 1971 広島三菱病院勤務 1972 広島大学病院医員 1974 広島記念病院就職1977 中央手術室医長 1978 国立癌センター留学 1979 米国メイヨクリニック留学 1990 広島記念病院外科医長兼中央手術室医長 1996 同診療部長 1997 同副院長 病院長事務代行 1998 同院長

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中井院長は広島市立基町高校の出身。大阪生まれだが、空襲に被災し広島に移ったそうだ。手術だけでなく、直接胆道造影などの診断も得意だという。

 取材当日、院長は岡山から来た患者を診たらしい。病院では免疫療法も取り入れており、その相談があったそうだ。国家公務員共済組合連合会の中では古い院長の一人だが、先代の院長は昭和50年から平成9年まで務めたそうで、もっと長い。病院は広島市中区にあり、平和記念公園のすぐ近く。路面電車の駅も近いので、交通アクセスは良好だ。

 当院は昭和25年に、国家公務員共済組合連合会の前身の所属病院となりました。しかしその前から病院はあったんですよ。

 以前福岡市の聖福寺というお寺の境内に、京城帝大の先生たちが始めた病院がありました。大陸から引き揚げてきた人を対象に診ていた病院です。昭和22年になり、引き揚げ者の数が落ち着いたので、そこの先生の一部が原爆の落ちた広島を診ようと来られたのが、当院の始まりです。病院の前に今公園がありますが、もとはそこに2階建ての病院を作っていました。浜本工芸㈱が資材を提供してくれたと聞いています。

 連合会の千早病院(福岡市東区)と浜の町病院(福岡市中央区)は、聖福寺で始めた病院の流れをくむ、同じ成り立ちの兄弟病院です。また吉島病院(広島市中区)は、当院の結核部門が分かれたもので、やはり兄弟のような関係です。

 当院からは、広島大学や東大の教授になった先生も出ているんですよ。

また3代目の上村良一院長は、広島大学第一外科の初代教授です。2代目は、京城帝大で助教授をされていた中野祐院長でした。先代の増田哲彦院長は上村院長の門下生、私が5代目です。

 広島大学第一外科の先輩である、尼川先生が私の師匠筋です。尼川先生は金沢大学の出身で、広島大学から初めて国立癌センターに留学されました。帰ってこられたところを、私がすぐに来てほしいと声をかけ、来ていただいたわけです。私が来た年の7月のことで、2年間みっちり仕込まれました。遊びも含めてね。

 私を国立癌センターに紹介してくださったのも、尼川先生です。私を最初に教えてくれた広島三菱病院の林先生も厳しい人で、基礎を徹底的に教えてくれました。そういう良い先生に教えていただいたおかげで、今私は7千例の手術を執刀しています。中小の病院では、院長職だけに専念は出来ません。今も手術はしていますから、今後もっと増えます。

 私がそうやって育ててもらいましたから、当院は今も教育には力を入れています。ロボット手術に代表されるように、今後は科学の進歩で医学ももっと進むと思います。それに乗り遅れない医師を育てたいですね。しかしそう思う一方で、医師としての基本は押さえておくべきだと考えています。高度な道具がない状態でも医療が提供できる医師に育てたい。ボタン一つでロボットが自動で手術をする時代が来たとしても、外科医は手技の研鑽を怠るべきではないと思います。ロボットが握る寿司と、職人が握った寿司には違いがあるように、医師にも伝えるべき技があります。

 医師だけではなく、看護師の教育も重要です。手術の流れを読むことを教えるなど、やりたい医療をやるためにも看護師の教育はおろそかに出来ません。向上心のある看護師に仕事を任せれば、他の看護師もやる気を出します。みんなが勉強すれば、もっと高度な医療体制に進めるわけです。

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病院は平成6年に着工し、10年に竣工した。

 昭和62年に、連合会の今後の方針を決めるビジョン研究会というものができ、それに出席して勉強していました。その時の経験が、この病院をどうするかということを考える上で、役に立ったと思います。

 年号が平成にかわるころ、新しい病院の建設委員長を任され、病院建築の勉強をしました。当時は、新しいホテルが建つと観に行って研究しました。出来たばかりの東京都庁舎も観に行きました。手本を病院以外にも求めたんです。

 最初に関わった新築は、平成5年に建てた分院で、当院の建設をするために患者さんを一時的に移した施設です。今は歯科診療所と介護老人保健施設が入っています。その後に当院の設計にたずさわりました。当時の私が考えた、これからの病院の一つの形です。

 まず、入って病院独特の匂いがしないことを心がけました。各部屋をすべて陽圧にし、またトイレの匂いに気を配ったんです。そして全館抗菌絨毯(じゅうたん)にしました。私が留学していたミネソタ州のメイヨクリニックが同じような造りです。

 絨毯は各階で色を変えています。例えば手術場は落ち着くようにグリーンという具合です。患者さんが間違って違う病棟に来てしまっても、色で分かるようにしています。

 私の患者にTOTOの社員がおり、その人の話を聞いて、トイレは全館ウォシュレットにしました。今後は絶対これだと確信したんです。当時は反対の声も多くありましたが、今は喜ばれています。

 院長代行をしていた頃、この病院をどうするべきか考えました。そして私は10年間の予定を考えました。平成15年に電子カルテを導入していますが、キーボードに慣れるため、導入前に50台のパソコンを購入し、練習させました。導入がスムーズにいった理由だと考えています。平成12年に日本医療機能評価機構の認定を受けましたが、連合会で受けた最初の病院で、全国でも159番目です。当時の理事長にかけあって、半分費用を出してもらいました。18年のDPC対象病院になったのも早い方です。

 免疫療法もそうですが、中小の病院の経営は、大きな病院の一歩先を行くつもりでやるべきだと考えています。気持ちの上では10年先を見るべきです。当院は都市部にありますから、大きな病院が周りにたくさんあります。中小の病院ならではの、小回りを活かしたいですね。

 先代院長の方針で、私は紹介してくださった開業の先生のところに、レントゲンフィルムや摘出した臓器を持って行き、説明していたこともあります。病理のプレパラートを持っていくと、自分の顕微鏡で見る先生もいらっしゃいました。今は時代が変わってしまい、そういうことはなくなりましたが、当院は昭和40年代から地域の先生たちと信頼関係を築いてきた伝統があります。それを私も受け継ぎ、そして提携する先生たちを増やしました。中小の病院ならではの、連携の形があると考えています。

 父は歯科医で、専門は口腔外科です。祖父は父方が弁護士で、母方は商売人で政治家です。私は四男なんですが、長男は外科医、三男が父を継いで口腔外科医です。兄達は小さい頃から医師になると言っていました。父は私を弁護士にしたかったみたいで、中学生までずっと言われて嫌でした。私は建築家に成りたいという気持ちもありましたが、結局は医師の道を選びました。

 私が医師になった時、九つ上の兄は呉共済病院の外科医長でした。医師になって2年目の時、私は兄と二人で父の手術をしました。胃癌でステージⅡでした。呉共済病院の手術室で、私が第一助手です。父は我々兄弟を誇りにしており「息子たちに手術してもらった」とあちこちで言っていたそうです。

 当院の外科医は、みんな自分の親を手術しています。私の弟子はみんなやっていますよ。私は妻も娘も息子も手術しています。


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