60余年の地域医療 牽引してきた自負、これからも忘れずに

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昭和9 年生まれ。修猷館高校から久留米大学医学部に進み、昭和41 年同大学院医学研究科卒。久留米大学病院に勤務しながら同43 年ネパール政府の依頼で無医村を診療、同46 年久留米大医学部脳神経外科学講師、同53 年スイスチューリッヒ大学脳神経外科留学、同56 年久留米大学病院救命救急センター主任、久留米大学医学部客員助教授、社会保険田川病院病院長などを歴任、平成20 年㈶福岡県社会保険医療協会の会長に就任、現在に至る。

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上は同協会のシンボルマークで、人間の関わりをイメージしている。色はオレンジ。下は協会経営改善要項に掲載されている患者の義務。

患者さんの責務

あなたは、病院の機能を十分に達せられるように病院のルールを守り、以下の義務を果たす責務があります。

1. あなたは、協力的・積極的に診療に参加する義務があります。
2. あなたは、あなたの健康に関する情報を正しく伝える義務があります。
3. あなたは、ほかの患者さんの診療に支障を与えないようにする義務があります。
4. あなたは、医療費を支払う義務があります。

㈶福岡県社会保険医療協会はどんな活動をしているのでしょう。

私どもは昭和25年6月から診療を開始して62年が経過しました。今は県下に7つの病院(総病床数1391床)と、透析を専門とするクリニックなど15か所の介護保険事業所、そして1つの老健施設、また看護学校も1校あります。

当協会は地域社会における社会保険医療の普及によって社会保険に寄与し、福祉を増進することを目的とした活動を行なう公益法人です。

特に新築移転する社会保険直方病院は、地域密着型の中核病院として、地域の医療機関と密接な連携を保ち、当該地域の医療の質をいっそう向上させたいと思っています。

活動の歴史を教えてください。

戦後日本のエネルギーの大半は、筑豊から産出する石炭でした。しかしそのころ、中小炭坑事業所の病院がなかったので、石炭を増産する勤労者の健康維持のために政府が国の病院を作ろうとしたところ、国が民間病院にお金を出すのは資本主義に反するとGHQが言いだしたので、福岡県知事に要望して、県庁の中に発足事務所を作ったわけです。でも県立病院にするとそれもまた公的です。それで市町村に土地や建物の提供をお願いしました。この財団法人はそうして生まれました。炭坑で働く労働者だけでなく、地域の人の健康も守ることを目的として設立された公益法人です。

炭坑の医療が出発点ですか。

国の石炭増産緊急対策の推進とともに、多くの人が炭鉱に集まり、これら炭坑で働く人々の福利厚生と環境改善をはかるため、当協会が設立されました。それで私どもの名前が社会保険医療を普及するということから決まりました。言い換えれば皆保険の中で治療をしていくという立場です。

石炭産業を盛んにするために勤労者を助けようというのが、日本全体の国民を助けるということにつながった。そこから始まって、財団法人として今7病院残っているんです。

私たちは昭和61年から改善要項を公にし、4つの医療理念と8つの患者の権利、4つの患者の義務を定めてきました(図参照)。ただ患者の権利を実行するのは医療者です。それにともなって患者に義務を守ってもらうことになります。年2回のTQM活動も52回目を数えますから、26年くらい前から実施しています。

会長になる前は何をされていたんですか。

社会保険田川病院の院長でした。そもそも久留米大学の出身で、社保田川病院は卒業生の教育関連病院でした。その前は九州で唯一の高度救急救命センターを作って運営し、大体これで良かろうというところで、教授会から田川に行けと言われたんです。断ったらクビになるので(笑)行きました。実は私の生まれは嘉麻市、昔の山田市で、みんなは私が筑豊に行くのは大変だと思ったみたいですが、そんなにストレスはなかったです。

医者になろうとしたきっかけは。

父も医者でした。炭鉱の病院に務めていたので、根っからの筑豊人です。4人兄弟ですが弟が亡くなって男は私一人で、当時、医者の息子は医者になるのが当たり前でした。私も軍人になるのはいやでしたから、軍医になりたいと言っていました。戦争が終わって父に「医学部に行く」と伝え、のちに父が福岡市内で開業したので私も修猷館に行きました。

社保田川病院に赴任することになったのは、高度救急救命センターの実績があったからだろうと思います。それで久しぶりに山田の中学校の同窓会に顔を出したらみんなよろこんでくれて「命はお前に預けるからな」と言ってくれました。とても歓迎されましたね。

終戦直後と今は会長の目にどう映りますか。

食糧難で荒れた時代でしたから、稲刈りや野菜作りはみんなでやっていました。新制中学にみんなが行けるようになった ことは非常によかった。それまで義務教育は小学校で終わりでしたから。

当時は食料確保が国民全体の共通の悩みでした。今は飽食の時代。お金さえあれば何でも手に入るようになって、食料に目を向けなくなりましたが、今度はお金の問題が起きてきました。競争社会の中で個人にとって非常にむつかしい時代です。収入の問題にしろ、就職の問題にしろ、自由だと言いながら実際にはありませんからね。WHOから日本の15・7%の貧困率をなんとかしろと言われているにもかかわらず。

満足な医療を受けられない若い貧困層に打つ手はありますか。

ある程度の生活を支えて職業訓練をすることが必要でしょう。仕事の情報をオープンにして、住居のない青年たちをまとめてきめ細かに援助する必要があるでしょうね。

感謝される仕事、感謝をする仕事。

年齢の割にすごく若く見えますが、秘訣は?

70歳になったら筋肉が3分の1減ると言われていますから毎週筋トレに行きます。若いころは、より困難なルートから登るロッククライミングをしていました。大学でも山岳部にいました。

登山は自然が相手ですから、天候が変わったら攻めるか引くかの判断が非常に大切です。そのためには日ごろのトレーニングが大切です。学生時代は1年のうち75日ぐらいを山で過ごしていました。剣岳で鹿児島大学の学生を救助して、学長からお礼の手紙をいただいたという思い出もありますね。

山からさまざまな危機管理と、常に上に上にという感性、基礎体力と自分を律することを学んだのだと思います。

今は筋トレだけでは足りなくて、3年前から両足首に1Kgの重りをつけています(ズボンの裾をめくって見せる)。私の山靴が1Kgですからね。

若い医療者に伝えたいことがあるとすれば。

いかに感謝してもらえるかに尽きますね。医療というのは、元気になれば必ずありがとうと言われますが、亡くなられても感謝されるような医療ができれば幸せでしょうね。私は脳神経外科ですから、チーム医療のなかで特に看護師たちと力を合わせなければなりませんが、同僚への尊敬をもちながら医療をすることは、それだけ多くの情報を教わる機会となります。

若い医師に私が言うのは、忙しい時ほど、受け持った患者さんの看護記録を読みなさいと伝えます。そうすれば、前の晩にその患者がどんなことをしていたかを看護師が必ず書いている。それを読んだあと患者の部屋に入るか、読まないまま入るのとでは患者と医師の信頼関係も変わってきます。看護師の情報は貴重です。

大学で講義していた時、最初に学生に伝えるのは「さぼる」ことでした。

手術は徹底的に、術後の心配がないぐらいに攻めの姿勢でやれば、あとで気を揉む必要がないです。そのために医学的知識と経験が必要です。もちろん人間ですから、たえず自己反省をしなければプラスにはなりません。それだけのことをすれば、気持ちよくさぼることができるのです。

医師になりたてのころはそう言えませんでしたが、経験を積んでいく中でわかってきました。

60歳の時に、「自分は医者になれたなあ」と思いました。それは、いろんな人の人生を理解でき、容認できるようになったからです。70歳になると、いっしょに元気で生きましょうねと言えるようになりました。


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