地方独立行政法人 佐賀県医療センター 好生館 理事長 中川原 章
12月13日に好生館多目的ホールで式典とシンポジウム
好生館創始180周年が我々に問いかけるもの
佐賀県の医療と福祉には大きな課題が山積しています。たとえば全国有数の高いがん死亡率、医師や看護師の不足、多くの市町村での人口減少、地場産業の弱さ、改革のための財源や人材の不足などです。
さかのぼること180年、第10代藩主直正公の時代も、財政が困窮していたにもかかわらず、教育担当だった古賀穀堂の教えを生かし、人員削減、石炭採掘、製蝋(せいろう)、窮民救済、人材育成、大砲や蒸気船の製造、西洋医学導入を大胆に実行しました。この大きな潮流の中で天保5年(1834年)、直正公により、西洋医学の病院として日本で最も古い歴史のある好生館が創設されたのです。
このころに起こった最も大きな出来事のひとつに、1847年に佐賀で流行した天然痘を抑えるため、オランダから取り入れた種痘を1849年に、息子の淳一郎君(のちの第11代藩主直大=なおひろ)に施行したことがあります。ここから、佐賀藩出身の伊東玄朴が江戸で「種痘所」を開くなど、全国に種痘が普及するきっかけとなりました。また、1861年から、好生館で蘭方医学を学んだ者だけに与えた「免札」は、わが国の医師免許の先駆けとなりました。
明治5年に好生館は佐賀県立病院となり、以降、複数の戦争の時代を経て、平成22年の地方独立行政法人化まで、時代の荒波を乗りこえて存続してきました。
鍋島直正公は長崎在住の佐賀藩医楢林宗建を介して痘苗をオランダから取り寄せ、息子の淳一郎に種痘を施した。後方に立っているのが直正、種痘を施しているのが侍医の大石良英。これ以降「痘苗」が全国に広まった。下は当時の種痘の道具。
明治時代に好生館で看護師の養成を行なっていた記録が残っています。佐賀藩出身の佐野常民が創設した日本赤十字社と関係していたかどうかまでは残念ながらわかりませんが、この時の一部の看護師の帽子に赤いダブルクロスのマークがあり、これが現在の好生館のロゴとなっています。同じく明治のある時期に研究室もあったらしく、主に病理学の研究や動物実験が行なわれている写真もあります。さらには、好生館の教官だった金武良哲が木製の顕微鏡を作製しています。
第二次世界大戦後、好生館は地方公営企業法一部適用のもとで、苦しい財政と経営下にあっても、佐賀県の医療を担う中核病院として、その役割を充分に果たしてきました。
そして平成22年4月1日の地方独立行政法人化で好生館は歴史的なターニングポイントを迎えたと言えます。初代理事長の十時忠秀先生(現佐賀ハイマット理事長)が、歴史が動いた感覚にとらわれて、恐れと緊張感に震えたそうです。
十時先生はこの4年間で大幅な改革をされ、財政の面では黒字に転化、医師や看護師など医療者も着実に増やしてこられました。
それを引き継ぎ、180周年を節目として次の改革を進めたいと思います。深刻な超少子高齢化と人口減少となった佐賀県の医療と福祉を担うために、佐賀大学附属病院やほかの病院と連携を密にし、180年にわたって培ってきた穀堂と直正公の精神を生かすことが大切です。好生館がこれから歩む道は、日本の医療にとっても重要になるはずだと私は認識しています。
上から、鍋島直正公直筆の「好生館」の扁額
文久二年に好生館が発行した内科医免許(免札)。朱印に「医学寮」とある
3枚目の写真=看護師の帽子にダブルクロスがある
下の2枚は外科手術室と旧好生館西洋館の外観
そのために、職員には次の改革を訴えたいと思います。
①若い人材と女性の登用=若い人材に自由な発想と活動する機会を与える②人材育成=自らを律し、人のためになる仕事をいとわない医療者を育てる③進取の心得=新しい技術や知識を積極的に導入し、常に最新の医療を県民に提供する④連帯と発展=県民に開放された病院とし、連携病院やかかりつけ医などとの協力を積極的に行なう⑤県民優先の医療=県民が求め、安心できる医療を率先して行なう⑥地域包括ケア構築における役割=救急から在宅・介護までのシームレスな医療連携の推進⑦個別化医療の確立に向けて=予防および治療医学における研究開発の推進。
また、将来構想として、がんセンター、被爆医療センター、看護学校、そして研究所や歴史館、図書館や国際ホールも備えたプレミアムホールの設立もこれから検討されるようです。さらにサガハイマットや県内の自治体病院、かかりつけ医との連携をいっそう密にして、高度急性期病院としての好生館の役割をしっかり見定めていきたいと思います。
そしてこれらを推進するために、好生館の国際化や医療の質の向上とともに、職場環境と患者・家族への接隅の改善を怠らないことが重要です。このたびの創始180周年記念を機に、好生館が存続してきた歴史に学び、新しい時代の好生館像を求めて、佐賀県民のための起死回生の改革を断行したいと思います。そしてそれが日本の医療にも貢献できたら、さすが佐賀の民だなと、直正公がよろこんでくれるかもしれません。
私はアジアで唯一人の、国際小児がん学会の理事職にあり、理事のあいだで日本で学会をやりたいと気運が盛り上がって、2018年の世界大会を日本に誘致することが決まりました。国際化といっても、日ごろから活動しておくことが大切です。佐賀で開催したいのですが、国際的なアンケート調査で、「世界でもっとも行きたい街」のトップに京都が選ばれて、残念ながら学会を成功させるには京都がいいということになりました。2,500人から3,000人くらい集まりますから。
外国人は舞妓さんをちらっと見ただけですごくよろこびますから、その仕掛けは必要でしょうね。
私はいろんな国に医療者の友人がいますので、好生館の中に国際交流部を作り、組織としてJICAをサポートしたり、いろんな国の医療機関と協定を結んで、佐賀のために尽くしたい。それが、ひいては日本のためになれば、これほどうれしいことはありません。
「創始180年の記念事業を通じて、先人から託された思いに気づきたい」
好生館の創設は安政5年(1858)の「医学寮好生館」の命名によるとされ、2009年3月に150周年記念式典を行なっている。ところが複数の研究者の調査で、ルーツは天保5年(1834)、佐賀藩が西洋医学教育を導入した「医学寮」設立までさかのぼることが明らかになった。
今年が創始180年にあたるため、好生館では記念事業を開催し、設立の理念「好生の徳は民心にあまねし=人の生命を大切にする徳を万人にゆき渡らせる」(鍋島直正公)と古賀穀堂の「学問なくして名医になるは覚束なきことなり」を再評価し、当時の精神をもう一度よみがえらせなければならないと中川原理事長は話す。直正公は「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽に後れて楽しむ」を自らに課してさまざまな改革を行なったという。
記念式典のプログラムは次の通り。
基調講演「江戸時代の西洋医学と佐賀藩」=青木歳幸佐賀大学地域学歴史文化研究センター前センター長。座長=中川原章佐賀県医療センター好生館理事長。
シンポジウム「好生館―江戸から近代、そして未来へ」=佐藤英俊佐賀大学医学部地域包括緩和ケア科診療教授、鍵山稔明佐賀医学史研究会会長、宮園浩平東京大学医学部長、前山隆太郎佐賀医学史研究会前会長、森田茂樹佐賀大学医学部附属病院長、十時忠秀佐賀県医療センター好生館初代理事長。指定発言=井口潔九州大学名誉教授・佐賀県立病院好生館名誉館長。司会=青木歳幸、樗木等佐賀県医療センター好生館館長。