長く、パキスタン〜アフガニスタンで医療、人道支援活動をしてきた、PMS(平和医療団・日本)総院長でペシャワール会現地代表の中村哲医師が2019年12月4日、アフガニスタンのジャララバードで銃撃され、急逝した。福岡市で開かれた合同葬に1500人、お別れの会には5000人が参列し、その死を悼み、活動をねぎらった。医療の枠を超えたように見えた活動は「医の原点」でもあった。同じ時代を生きた医師たちが見た、「中村哲医師」を届ける。
今でも先生が私の生きる標
認定NPO法人ロシナンテス理事長 川原 尚行 医師
「花と龍」のモデル、玉井金五郎を祖父に持つ中村哲先生は現代社会でまさに義侠(ぎきょう)心の世界を生きてこられた。私がスーダンに外務省医務官として赴任した後、困っている人を助けようと辞職しロシナンテスを設立して赴いたことも、気がつけば後を追っていたような気がします。今でも中村先生が私の生きる標(しるべ)です。訃報が届いた時には自分の魂の一部を失ったようで、震えが止まりませんでした。「私の後継者は用水路」という言葉が身にしみてきます。
行動を振り返るための指針
九州大学総長 久保 千春 医師
先生は私の行動を振り返るための指針でした。九州大学の特別主幹教授として、2014年から年1回、学生・教職員や市民の方にご講演いただきました。病める人、苦しんでいる人や貧しい人への活動を続けておられ、会を多くの賛同者と共に、組織的に運営されていました。医学部で同級生でした。学生時代、一緒に無医村でボランティア活動をした時に「愛が大事である」と言われたのを覚えています。「飢えと渇きは薬では治せない」も印象に残っています。
大半の医師が応援していた
鹿児島県・下甑手打診療所で39年間、離島診療に当たったDr.コトーのモデル
瀬戸上 健二郎 医師
大半の医師は中村先生の活動に関心を持っていた。わがことのように思いながら、気持ちだけは応援していた。私も開業準備中に、島の村長に「半年」と頼まれて赴任し、40年近く引き揚げられなかった。スケールの大きさは違っても「照一隅」の思いは同じ。36年間引き揚げなかった中村先生の境遇に「似ている」と感じていた。医療だけでは問題は解決しない。いかに地域を守るかという問題に突き当たるはずで、水と食料、そして平和こそ最大の問題だったのでしょう。まさに「巨星堕つ」。
心の中に彼の思いを常に持って
日本医師会 会長 横倉 義武 医師
先生は医師として尊敬する一人であった。新幹線の新大牟田駅で一度、お会いしたことがある。活動を医師会も支援できればと立ち話をした。昨秋、日本医師会最高優功賞を贈り、業績を全会員に知ってもらえた。その活動は誰もができることではないが、医師は心の中に彼の思いを常に持っておかねばならない。患者さんに何が最適か、実現に何をなすべきかなど、教えられることは多かった。彼ほど尽くし溶け込んでいても、襲撃された現実に衝撃を受けた。
故郷再生、希望おじさん
アフガニスタン復興支援NPOカレーズの会理事長でレシャード医院(静岡県島田市)院長
レシャード・カレッド 医師
中村先生は1984年からアフガン難民約300万人の診療を始めました。多くの若者が応援に加わりました。設立された病院を視察し、熱心さに感銘を受けました。飢餓、衛生面、居住の解決が重要と判断し、井戸掘りを始められました。地域に夢を与え、故郷の再生、子供たちの生活基盤の安定につながりました。2014年には、ジャララバードの先生宅に宿泊し、一晩中、話を聞きました。神様のように敬われ、「カカ・ムラド」(希望おじさん)と呼ばれていました。
中村哲医師と現地事業36年の足跡
1984年 パキスタン・ペシャワール着任。前年に支援団体ペシャワール会発足
1991年 アフガニスタン最初のダラエヌール診療所開設
1998年 両国の活動拠点・PMS(ペシャワール会医療サービス)基地病院開設
2000年 アフガンで干ばつ深刻化。緊急対策の水源確保事業(井戸掘り)開始
2001年 「アフガンいのちの基金」を設立し、空爆下に15万人へ食糧配給
2002年 アフガン東部の長期的農業・農村復興事業「緑の大地計画」発表
2008年 ペシャワール会日本人ワーカーの伊藤和也さん拉致・死亡
2009年 マルワリード用水路(24.8㎞)がガンベリ砂漠に通水し、開拓始まる
2010年 「平和医療団・日本」に名称変更(略称のPMSはそのまま)
2019年 植樹100万本突破。12月、中村医師襲撃され死亡
活動の概要
中村医師は1984年、ペシャワール・ミッション病院に着任し、ハンセン病を中心に診療を始めた。パキスタン人と分け隔てなく、アフガン難民診療も本格的に始めた。足底が化のうして切断に至るハンセン病患者の穿孔(せんこう)症を予防するため、院内にサンダル工房を開設した。医療にとどまらない「患者さんのための活動」の原点がここにある。
アフガン人医療チームとハンセン病多発地帯のアフガン難民キャンプ巡回診療を開始し、2年後には国境を越え、アフガニスタンにも活動を広げた。
2000年、アフガンで干ばつが深刻化。水不足で赤痢やコレラが急増し、緊急対策の水源確保事業として、井戸掘りを始めたのが転機となった。飲料用井戸約1600本、かんがい用井戸13本などを掘削した。
ソ連のアフガン侵攻、米国多発テロを受けた米英軍空爆、大干ばつ、洪水など、国際情勢や自然の猛威のもとで、住民の側に立ち、用水路をつくり、かんがい事業を行った。09年に活動拠点をアフガニスタンのジャララバードに移し、ガンベリ砂漠での農地開拓を始めた。
ガンベリ試験農場でオリーブを植樹し、畜産を開始し、サトウキビで黒砂糖の復活生産に成功した。マドラサ(神学校、学童600人)も開校した。16年には1700haに安定してかんがいするミラーン堰(ぜき)を完工させ、現在、クナール川流域で65万人の暮らしを支えるようになった。
PMS取水方式の訓練所をつくって、後継育成のため授業を開始した。ダラエヌール診療所の年間診療数は約4万7000人(2018年度)。アフガン人の自主独立を促す活動に終始した。