九州医事新報社 - 医療・医学の〝今〟を伝えて62年

東日本大震災から10年 被災地から新たなカタチを探る

東日本大震災から10年 被災地から新たなカタチを探る

 2011年3月11日午後2時46分ごろ。東日本大震災は発生した。最大震度7(宮城県栗原市)を記録した大きな揺れと、9・3㍍以上(福島県相馬市)の巨大な津波。災害拠点病院を含む多数の病院で建物の損壊(一部含む)が起き、浸水も発生した。

 大規模災害は、災害時の医療継続の難しさなど種々の課題を投げかけた。同時に、震災以前からあった「医師不足」という問題も、地震と福島原子力発電所事故の影響で深刻化。地域医療提供体制の維持に大きな影を落とした。

 あの大震災から間もなく10年を迎えようとしている。被災地の復興は進み、浮き彫りになった課題に対する、病院や医療者のさまざまな挑戦にも、成果が見えてきている。

 「3・11」から10年を機に、被災地で医療を守る人々の言葉と病院の取り組みから、今後の地域医療のヒントを探りたい。


被災地の病院から、今 地域医療の新たなカタチを探る


遠隔から支援する

 南相馬市立総合病院から、透析診療開始の相談を受けたことをきっかけに、2018年3月、スタートした「遠隔透析」。震災後の「透析難民」問題の解決だけでなく、教育や研究の充実にもつながりそうだ。

主任教授の
風間順一郎氏

人を増やす戦略ではなくサポートする形へ

 「大学の透析専門医をどんなに増やしたとしても、県下全域に派遣するのに十分な人数に届かせるのは難しい。限られた人数で、この専門医療を行き渡らせる方法を考えた先にあったのが、この遠隔透析でした」と、考案した腎臓高血圧内科主任教授の風間順一郎氏は語る。

 実は、相談の1年ほど前、教授着任直後から、この方法を考え始めていた。週3日医療機関に通い、1回4〜5時間の透析を必要とする患者の負担を考えると、透析医療は都市部や大病院への集約が難しい。とはいえ、地域の病院全てに専門医を派遣することは不可能で、症例数が少ない病院に医師を送ることは、その医師のキャリアアップを考えた時にも難しいと思えたからだ。

 「地域医療のための背に腹は変えられぬ作戦」(風間氏)として、専門医療は、ハブ病院にいるスペシャリストが遠隔でサポートし、現地ではゲートキーパーであるジェネラリストが患者を診るイメージを考えた。

教室員が集まる遠隔カンファランス

 福島県立医科大学が進める「遠隔透析」は、大学と病院を専用回線で接続。大学にいる透析専門医は、画面に映し出される透析中の患者さんの様子と透析装置から送られるデータ、電子カルテの内容を確認して、患者さんに異常の前兆が見られた時などに瞬時に助言し、現場にいる病院スタッフの対応を支援するほか、透析治療を行う際の設定(透析処方)の指示などもする。


若手育成の充実 研究の活性化につなげる

福島県立医科大学 遠隔透析イメージ図

 大学側にもメリットがある。一つは教室員が大学にいながら維持透析の実体験を積めること。現地の病院スタッフからの相談に乗ったり、一緒に改善策を考えたりすることにより、「教室員の透析診療の力がついてきた」と風間氏は語る。

 今後、目標とすることの一つは、学生や研修医の教育への活用。さらに、維持透析に関する研究の活発化も期待する。「大学内で透析への関心が高まり、ドラスティックな革命につながるような研究ができればうれしいですね」。南相馬市立総合病院で遠隔透析を導入してから3年ほどが経過した。県内計3施設で実施され、年内にさらに2施設でも開始を予定。さらに広げたい考えだ。

災害を伝え、備え続ける

センター長の
市川宏文氏

 震災時、大きな被害を受けた石巻周辺の医療を支えた石巻赤十字病院。2015年に完成した災害医療研修センター・北棟は、3・11の教訓をもとに非常用電源や予備水源の拡充などが図られた。センター専従職員を中心に、講習や訓練などにも積極的に取り組む。

「困ったこと」を生かした造り

 「あらゆる部分に教訓が生かされている」と管財課の内海勝氏は語る。震災後に建設した災害医療研修センターと北棟は、東日本大震災で大きな被害を受けなかった本棟と同じ「免震構造」を採用。当時、1週間ほど断水し、飲料・医療用水の確保が困難だったことから、雑用水用の受水槽の前に副受水槽を置き、そこからも飲料・医療用の水が取れる仕組みを採用した。

管財課の
内海勝氏

 さらに給水車が来た時に、受水槽に水を入れやすいよう、送水口を屋外に設置。電気は、100%の供給能力を有した自家発電装置を導入。無停電装置設置、電源の二重化で止まらないよう備えている。

 震災時、最大で64の支援チームが病院に集まった経験を生かして、センター1階と併設の看護学校を待機スペースとして使えるようにするなど工夫が凝らされている。

頑張った記憶を受け継ぐ訓練

 災害医療研修センターには、医師、看護師長が各1人と、災害救護の知識・ノウハウを有する事務職員4人の合計6人が所属。DMATとして被災地に出動して活動するほか、災害対応訓練、職員研修の企画実施や地域住民向けの講演、国内外からの視察の受け入れ、災害マニュアルの更新などにも当たっている。

災害救護係長の
高橋邦治氏

 「訓練をしていたから、3・11の時に動くことができた。訓練が非常に大事」と強調するのは、2011年当時を経験している一人で災害救護係長の高橋邦治氏。全職員対象の災害対応訓練は、2〜3カ月かけて準備。行政や消防など関係機関、学生も含めておよそ700人が参加する。患者役には細かい設定があるが、職員には事前にシナリオを伝えない「ブラインド型」で実施。災害時に起きた問題も盛り込み、リアルで実践的な内容に作り上げる。

 現在、検討を進めているのが、原子力災害への備え。県内に3カ所ある原子力災害拠点病院の中で、女川原子力発電所に最も近く、被ばく・汚染傷病者への対応だけでなく、病院が避難する事態も想定。県などとも調整を進める。

 「この病院には、震災時、職員全員で頑張った記憶が息づき、災害への備えや災害医療が大事だとみんなが認識している」とセンター長の市川宏文氏。「職員の入れ替わりがある中でその組織文化を育み、発展させながら、さまざまな災害に備えていきたい」と話している。



地域の研修医を増やす

3病院でたった1人 震災翌年の研修医

「人材育成は情熱」と語る石橋敏幸氏

 研修医が来ない―。危機感を共有した3病院が連携し、市医師会や行政も巻き込んで若手医師の確保・育成に取り組み、成果を上げている。

 震災と原発事故の影響を受けた福島市。翌12年、市内の福島赤十字病院、大原綜合病院、医療生協わたり病院の3病院の研修医数は、合計で1人と、前年の9人を大きく下回った。

 「3・11のダメージは、とても大きく、自分たちの病院だけで頑張ってもだめだと判断しました」。福島市臨床研修〝NOW〟プロジェクトの代表で、当時大原綜合病院副院長だった石橋敏幸氏(現:大原医療センター院長)は振り返る。

2014年、プロジェクト発足時の記者会見の様子。左から、石橋氏、市医師会長の丹治伸夫氏、市健康福祉部長の松谷治夫氏(肩書きは当時)

 「どん底からはい上がるために、若い人材・研修医の教育を軸に据えていこう!」。連携の必要性を感じた石橋氏は、沖縄で群星沖縄臨床研修センターを立ち上げた宮城征四郎医師に、佐藤勝彦・大原綜合病院院長と共に教えを乞うた。12年9月には市や市医師会は福島市地域医療対策協議会を設置し、臨床研修病院とともに医療の復興に着手。13年10月には、わたり病院に救急搬送された患者が、福島赤十字病院での診断を経て、大原綜合病院で手術された症例をもとに、3病院合同の救急症例検討会を初めて開催した。




回復した研修医数 見えてきた「定着」

福島市市中3臨床研修病院における研修医数の推移

 14年4月、プロジェクトが発足。活動の中心は全員参加型勉強会、各分野の専門医による講演と合同臨床病理カンファランス(CPC)、研修医の勧誘活動だ。

 実践的な勉強会やカンファは研修医たちの臨床力アップにつながり、全国の著名な医師らの講演も毎年、熱気に包まれる。震災翌年の1人からV字回復した3病院の研修医数は15年には計18人。2年間の研修修了後、福島県に定着する医師も増加して、着実に地域医療に貢献するようになった。

 今後、企画したいと考えているのは日本の医療の方向性を考える勉強会。「コロナ禍で人々の生活や医療への意識が大きく転換した。医療の20年、30年先を考える教育をすることが、この国、特に地方の医療を守ることにつながると思うのです」

この記事を読んだ方は他にこんな記事も読んでいます

最新の記事情報が取得できます

Twitter

「いいね!」ボタンを押すと、最新情報がすぐに確認できるようになります。

Instagram

フォローする」ボタンを押すと、最新情報がすぐにツイート上で確認できるようになります。

Instagram did not return a 200.

コメントはこちらから

[contact-form-7 404 "Not Found"]
メニューを閉じる