救急医療を作ったのは未知の症例の積み重ね
「見たことのない症状の患者が次々に運ばれてくる。その度に必ず救命するんだという思いに奮い立ちました」と語る杉本侃理事長。救急医療の概念もない時代に、救急を開始。今の体制を一から作り上げた。
◎日本初のER
「もはや戦後ではない」という経済白書の言葉の通り、1950年代後半から日本経済は高度成長期に突入しました。交通ルールや信号機の整備が不十分な状況で自動車の数が急増。交通事故死者数は1959年に1万人を超え、1970年には2016年度の約4.5倍に上る1万6765人を記録しました。
医学部を卒業して医師免許を取得しても、無給インターンが当たり前の時代。救急部はそういった若手の医師が賃金を得るためにアルバイトで受け持つことが多く、医療設備も不十分で応急処置程度の治療を施すのみ。数少ないながらも存在した救急部は、学生と大学が対立する「大学闘争」の標的となり閉鎖へと追い込まれ、新設することも難しい状況でした。
1970年に万博開催を控えていた大阪府では交通網整備が急務として進められ、交通事故発生件数も増加していました。そこで大阪府は、重傷患者を24時間体制で受け入れる施設の設置を大阪大学に要請。
6台の人工呼吸器をはじめとする当時としては最新の医療設備を揃え、1967年に、日本初となる重症患者の専門治療施設として、特殊救急部(現:救命救急センター)が大阪大学医学部附属病院に開設されました。私は実質的な責任者である副部長に着任。20〜30代の外科医と麻酔科医、計7人でスタートしました。
当時の私は、留学から帰国してすぐでした。1955年に大阪大学を卒業し、第2外科に入局。その後「海外で経験を積みたい」と、日本の医師免許で診療ができたスイスのカントン病院整形外科に留学しました。
そのころは、骨折の場合はギプスで固定して安静にすることが世界的に一般的な治療法でした。しかしスイスや隣接するドイツでは手術で固定し、早期にリハビリを開始する先駆的な治療を展開していました。
慣れないドイツ語に苦戦しながらも、世界トップクラスの医療を経験した私はやる気に満ちあふれており、帰国してすぐに「特殊救急部に来てみないか」という誘いを受けた際は迷わず承諾しました。
◎時代を反映する多種多様な救急患者
救急医療の概念が確立しておらず、風邪や腹痛などの軽度なものから、交通事故で両脚を切断したような重度の外傷まで患者の症状は多種多様。
景気悪化の情勢を受けて自殺を企図する者も多い時代でした。ビルから落ちて体中に鉄筋が刺さったままの患者、今と違い毒性が強かった家庭用ガスを吸引したり、農薬やパーマ液を飲んだりして中毒死を図った患者が次々と運ばれてきました。
救急医療のガイドラインがなかったため、患者が来る度に血液を採取して臨床検査をし、手術や人工呼吸器などを使って治療。それにより救命率は格段に向上し、学会で発表するとたちまち教科書に掲載されるなど、未知の症例を担当するたびに大きなやりがいを感じました。責任感と救命への思いに奮い立ち、それが医局員の原動力となっていました。
◎日本救急医学会を立ち上げ、課題を解決
ガス窯風呂が一般的であった時代は温度の管理が難しく、高温の湯船に落ちて広範囲に熱傷を負う小児の重症熱傷患者も相次ぎました。しかし皮膚移植治療が確立しておらず、なす術がないままに亡くなる患者も少なくありませんでした。
急性中毒は治療する上で化学物質、医薬品、動植物の毒など要因となるそれぞれの特性を把握する必要があります。
これらの課題を解決するために全国的な組織である日本救急医学会を立ち上げると、会員数は医師だけですぐに1000人を突破。医師会や厚生省(当時)の支持を得ることができ、「一般社団法人スキンバンクネットワーク」や「一般社団法人中毒情報センター」が設立されるなど、日本の救急医療の発展に大きな貢献をもたらしました。
患者の中には胸部を打っていない、または呼吸が安定しているのに肺機能が落ちて亡くなる患者がいることを、治療のために採取した血液サンプルを検証して学会で発表しました。するとベトナム戦争(1955〜1975)の戦地でも同じような症例が報告されており、アメリカ陸軍の医療団とも研究面で交流を深めていきました。
◎救急医療システム構築で救命率向上を目指す
特殊救急部の開設後数年かけて、救急患者の疫学的な傾向を大々的に調査しました。その結果、一般診療所が休診している日曜日に発生する救急患者は人口10万人当たり約150人。そのうち9割は注射や投薬などの処置で帰宅できる軽症者。残りの1割は入院を要し、その中の1〜2人は早期に高度な救命処置を必要とする患者であることが分かりました。
高度な医療を要する患者を救命するための救命救急センターの必要性を、日本救急医学会を通して厚生省に訴えました。その結果、人口100万人に対して一つ救命救急センターが作られることになりました。
1976年には、帰宅可能な軽症患者を対象とする「1次救急」、一般病院への入院を要する中等症以上の患者を対象とする「2次救急」、集中治療室への入院が必要な重症患者を対象とする「3次救急」から成る「救急医療システム」ができました。
救急医療システムという概念は、その後約10年かけて根付き始めました。大阪大学では1979年に救急医学が必修科目となり、救急医療は学問としても確立されていきました。救命救急センターの配置も進み、現在では全国284カ所にまで増加しています。
◎よく見て、よく触って
問いかけに対する反応、手を握る強さ、体温、脈などを把握すれば患者が今どういう状態なのかを理解することができます。そのため「患者の顔をよく見て、よく触ること」をモットーに診療しています。
特殊救急部ができたばかりの頃はCTやMRIなどはなく、脳内で出血している場合は血管から造影剤を投与し、内出血している部分を見つけて手術していました。
腹部で出血が起きている患者は開腹し、血が噴き出る中、指で押さえながら出血している箇所を探し、縫合して止血。止血する際も手元がよく見えないため、針先を自分の指に当てながら指先の感覚だけで縫合していました。そのため手術後、ゴム手袋の中に血が入っていないことの方が珍しく、これが原因と思われるC型肝炎やB型肝炎で亡くなる同僚も多くいました。医師も命がけで救急医療に尽力してきたのです。
◎災害時、病院機能を発信するシステムを
外傷患者が多く発生した阪神・淡路大震災。断層の真上の地域では病院も大きな被害を受け、そこに大勢の患者が殺到しました。一方、断層から数百m離れたエリアは被害が少なく、病院も患者収容能力に余力があるのにも関わらず患者がほとんど来ない状況でした。
阪神・淡路大震災では、通常の診療を施せば助けられたであろう「防ぎ得た災害死」は500人と言われています。同じ過ちを繰り返さないためにも、災害時、病院の機能と収容能力に関する情報を収集してラジオなどで発信し、各医療機関の患者を等しく分散させるシステムの構築が必要であると考えています。
医療法人 緑風会病院
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