日本初の生体肝移植に挑んだ永末直文・当時島根医科大学第二外科助教授の半生を振り返る「私の医師人生」。第2回は、転機の一つとなった、済生会八幡病院時代に焦点を当てる。
◎九州大学医学部入学〜インターン
1961(昭和36)年、九州大学医学部に入学。永末氏は当時を「日本全体が、貧しい時代だった」と振り返る。九州大学医学部周辺も現在とは違い「建物が何もない状態だった」とのこと。
学生時代は、将来の海外留学を見すえて「日本の代表として恥ずかしくないように一生懸命勉強していた」そうだ。
1967(同42)年3月、永末氏はインターン闘争のさなかに九州大学医学部を卒業。インターン闘争中は「学内では学生同士が対立し、毎日、放課後に左翼系学生と右翼系学生が激しい議論を交わしていました。私も意見が異なる学生と議論を闘わせていたことを覚えています」と永末氏は語る。
同年、4月から九州大学医学部附属病院でのインターンを開始した。ただ、当時のインターンは給与が保障されておらず、カリキュラムも不十分。「何もすることがなく本当に暇だったので、運転免許を取りに行ったんですよ」と冗談交じりに語る。インターンが終了したのは1968(同43)年3月。「義理の兄が外科医だった」こともあり、九州大学第二外科への入局を決めた。
◎済生会八幡病院での勤務
1969(同44)年1月から済生会八幡病院(福岡県北九州市)に出張した永末氏。1年間の予定期間を終え、研究のために母校に戻ることを考えていた矢先、学園紛争で大学が閉鎖されてしまったことを知らされた。
「あまりに突然だったので愕(がく)然としました」(永末氏)。そんな苦境を救ってくれたのが、当時の済生会八幡病院の院長で九州大学第二外科の大先輩でもあった廣澤正久氏だった。
廣澤氏は永末氏に「大学に戻ることはない。数年勤務してくれたら海外留学のバックアップもする。うちに残らないか」と声をかけてくれたとのこと。
廣澤氏は、当時、多くの患者が訪れていた肝疾患の担当に永末氏を指名した。吐血して運び込まれる人や、進行した状態で受診する肝がんの人。難しい症例も多かった。
「今できる治療だけでは予後を伸ばすことはできない。新たな手術にも挑戦しなければならない」との思いを抱いていた永末氏。肝切除や冠動脈結紮(けっさつ)術など、当時、日本では、ほとんど実施されていなかった手術にも取り組み始めた。「後の生体肝移植につながる挑戦する姿勢は、ここで培われたといってもいいと思います」と語る。
海外の文献を読むなどして独学で手術方法を模索する日々。「結果が悪ければ、患者さんに不利益を被らせてしまう。また周囲のドクターから批判されるというプレッシャーも常にあった」という。
「レベルアップのためにも、留学したい」。そう思っていた1972(同47)年、スウェーデンのルンド大学での海外留学の機会が巡ってきた。済生会八幡病院で勤務を始めて、3年が経っていた。(次号に続く)