1989(平成元)年10月26日、日本で初の生体肝移植が実施された。
主治医は当時、島根医科大学(現島根大学)第2外科助教授だった永末直文氏。今月号より、当時、日本ではタブー視されていた臓器移植に、果敢に挑戦した同氏の半生を綴る連載を開始する。
◎幼少期〜医学部入学
永末直文氏は太平洋戦争真っただ中の1942(昭和17)年、福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)で5人きょうだいの末っ子として生まれた。
活発でガキ大将だった永末少年の小学5年の夏休み、将来を決定づける出来事があった。
その日、永末少年と友人たちは、当時中学1年生だった永末少年の次兄と共に近所の池で鬼ごっこをしていた。兄が鬼となり、泳ぎが達者な永末少年は水中に隠れた。兄が永末少年の友人を見つけてタッチしようと近づいた、その時のことだ。水上に浮き上がった永末少年と兄の頭が運悪く衝突してしまったのだ。
衝突の衝撃で脳振盪(とう)を起こした兄は、意識を失い、そのまま池の中へと沈んでしまう。偶然、現場を通りかかった長兄が、もぐって救いあげたが、すでに息絶えてしまっていた。
子どもながらに責任を感じた永末少年。その日以来「僕が浮き上がらなければお兄ちゃんは死なずに済んだのではないか」と悩み続けたという。
悲運な事故から半年が過ぎようとしていたある日のことだった。叔母から「医師になって、亡くなったお兄ちゃんのような人を助けてあげなさい」と言われた。その言葉がきっかけとなり、医師になることを意識するようになった。
それまでは、あまり勉学に身を入れていなかったが、以来、医師になるため猛勉強を開始。6年生になる頃には中学校レベルの参考書や問題集をスラスラ解けるようになっていた。
中学校入学後、試験は毎回1位。自身の学力に自信が持てるようになり、医者になるのは現実的な目標となった。
高校は旧制中学校の豊津高等学校に入学、そこでも成績は、いつもトップクラス。「高校時代、医師以外の選択肢はまったく頭になかった」と語る永末氏。親にできるだけ経済的な負担をかけたくないとの思いから、国立大学医学部への進学を決意した。
東京大学医学部にも楽に合格するだけの学力があった。しかし長兄が東京の大学を卒業後、かの地で結婚したこともあり「両親を残して自分まで東京に出るのは忍びない」と考え、1961(昭和36)年、地元福岡の九州大学医学部に入学したのだった。
(次号に続く)