復興へ向け次のステップへ
熊本地震で甚大な被害を受けた南阿蘇村立野地区。村唯一の救急指定病院として地域医療を支えてきた阿蘇立野病院は、阿蘇大橋の崩落でライフラインを絶たれ、建物も壊れた。地震発生から1カ月半後、南阿蘇村河陽に出張診療所「上村ぬくもり診療所」を立ち上げた上村晋一理事長・院長に再建への思いを聞いた。
◎地震直後の対応
前震のとき、激しい揺れに驚きはしましたが、外来診療は続けられる状況でした。しかし、その2日後の午前1時25分に本震が発生。私は熊本市内の自宅にいましたが、尋常ではない音と揺れに「これはただごとではない」と思いました。
すぐに病院と連絡を取ろうとしましたが、電話がつながりません。市内に住む職員たちからも現場に行きたいと連絡がありました。危険だからと止めましたが、彼らはまさしく命がけで迂回ルート(ミルクロード)を通って現地に向かい、午前4時過ぎには病院に着いたと連絡がありました。
携帯電話はなかなかつながりませんでしたが、現地に入った職員たちと連絡を取り合いながら指示を出しました。
私は患者さんと職員の安否が気になりながらも気持ちを切り替え、自宅に幹部職員を招集。対策本部を立ち上げました。何度もミーティングを開き、県や医師会にも連絡。他院にも電話で医療協力をお願いしました。
発生直後、阿蘇立野病院にいた8人の職員たちは、2階と3階にいた70人の患者さんたちを全員1階に避難させていました。30人弱は寝たきりの状態。しかも余震が続く中での作業でしたから、職員たちは本当に大変だったと思います。
幸い、患者さんも職員も大けがを負うことなく無事でした。もし、1人でも死者が出ていたら、私もこんなに早く立ち直れなかったと思います。
その日の午後1時半ごろ、チャーターした観光バス2台が迂回ルートを通って病院に到着しました。患者さんを二手に分け、それぞれのバスに看護師が2人ずつ同乗。搬送時には当院職員の他に地元の消防団の方や近隣のガソリンスタンドのスタッフなど、周囲の方々が助けてくれました。そのおかげで、夕方までに8カ所の病院へ避難することができたのです。
また、その翌日には当院に外来で来ていた透析患者さんのために、再び県の医療政策課とDMAT(災害医療派遣チーム)に対応を依頼。被災したのは土曜日でしたが、翌週の月曜日には透析治療をご協力いただいた病院で開始することができました。
職員たち自身も被災者ですが、「困っている人を助けたい」という志を持って医療人になった人ばかりです。どうしても患者さんのことを優先してしまって、つい自分が被災者だということを忘れてしまう。そんな状態では、数日もたてば燃え尽きてしまいます。
当時は、全国各地から医療支援がありましたので、職員たちに「あなたたちも被災者なんだから頑張りすぎないようにしなさい」と言ったことを覚えています。「私たちは私たち自身のことに集中しよう。まず私たちが立ち上がることが地域のためになる。復興に向けた次のステップになる」と。
当院をかかりつけにされていた患者さんは、立野、河合、長野、沢津地区の方がほとんどで、この辺りは南阿蘇村の中で特に被害が大きかった地域でもあります。とにかく病院だけでも復旧しないと、皆さんの支えが無くなってしまうのではないか。こうして、がむしゃらに、前向きに、診療所開設に向けて取り組み始めたのです。
◎「上村ぬくもり診療所」開設
診療所開設のめどが立ったとはいえ、無床診療所です。11診療科、88床だった病院とは規模がまったく違います。職員全員をそのまま迎えて、十分な給料を払い続けるには無理があり、140人の正規雇用者を解雇しなければなりませんでした。
一生懸命、地域医療に尽くしていた職員たちから突然職を奪うことになってしまった。今でも本当につらい出来事です。
診療所に残した職員は地元に住む人を中心に28人。この規模の診療所が抱えるには多いのですが、次のステップである病院の再建のための投資だと考えて決断しました。
震災から約1カ月半が経過した6月1日、関連法人である特別養護老人ホーム「陽ノ丘荘(同村河陽)」の一角に、「上村ぬくもり診療所」を開設しました。
現在、診療所では、地域のかかりつけ医としての診療と、「陽ノ丘荘」、グループホーム「陽なたぼっこ」の訪問診療をしています。週に1度は大津町(熊本県菊池郡)の仮設住宅への巡回診療です。そこには、立野町で被災された住民の方々が避難されています。
つい先日、認知症のご両親の面倒を1人でみている方から「仮設に入ってよかった」と意外な言葉を聞きました。その理由は、目を離すとすぐにどこかへ行ってしまうお父さんに、周囲の方たちが「どこ行くの?」と声をかけて、すぐに連れて帰ってくれるからだそうです。
入居当初はぎこちないところもあったかもしれませんが、餅つきやカラオケ大会などを通して、皆さん仲良くなっていく。今では「みんなで帰ろう」を合言葉に皆さん頑張っています。「僕らが先に帰っていますからね。気を落とさずにまた立野に帰りましょう。大丈夫ですよ」と言って励ましています。
◎震災でみえた反省点
今回の地震の中で、病院避難については課題が残りました。建物が倒壊し、ライフラインが断絶してしまった医療施設は別として、病院避難した事例の中には、そのまま"籠城"できた病院もあったのではないか。すぐにライフラインが復旧した病院、約4000回も地震があって、震度6以上が7回も起きたのに壊れなかった病院...。すべてに病院避難を適用したことは、果たして正しかったのか。
去る2月に名古屋市内で開かれた「第22回日本集団災害医学会」に、私もシンポジストとして参加しました。そこで、病院避難や籠城支援についての話があり、今後議論が深まっていくと思われます。
◎病院の再建に向けて
現在、病院では改修工事が進んでいます。今年4月から段階的に業務を再開し、道路や水道の問題が解決すれば夏以降には入院や一般外来、人工透析を再開する見込みです。ところが、人材確保に苦労しています。
災害基金の一部を医療職の人員確保のために使わせていただけないかとも考えています。例えば「復興看護師」「復興介護士」を募り、阿蘇で暮らしながら半年〜数年交代で復興のお手伝いをしてもらう。そうした制度でもできないと、地元の医療・福祉施設が元気になることは難しいのではないかと思います。
自然災害は避けて通ることはできません。災害のたびに前向きに考えて、はい上がっていくこと。あきらめずに少しずつでも前進していくことが大切です。
昨年12月、熊本空港方面と南阿蘇村をつないでいた俵山トンネルルートが開通したときは、車を運転しながら思わず涙がこぼれました。地震による崩落からまだ数カ月しかたっていないのに、もうこんなに立派な道路ができるのか、と。しかし、まだまだ阿蘇が復興したと思ってほしくありません。阿蘇といっても、エリアによって被災状況もまったく違いますし、立野地区に至っては水道も道路も復旧していません。
地震の直後は全国からたくさんの支援がありましたが、時間の経過とともに忘れられてしまいます。決して忘れてほしくない。肥後人は見栄を張りたがる気質ですが、見栄を張れない人もいます。復興への道はいまだ遠しということを、地域住民を代表して伝えたいですね。