地域住民とともに歩む/地域の実情に沿った病院運営
―但馬地域にとって必要な地域医療とはどんなものでしょうか。
ちょっと昔話から始めたいのですが、私が八鹿病院に赴任したのは1967(昭和42)年です。
当時は社会が大きく動いた時代でした。1969(昭和44)年には東京大学安田講堂事件があり、この事件が東大医学部が中心となった「インターン闘争」の発端になったのです。
似たような運動が全国の大学に波及したため、学生がインターンの廃止を訴えて教授の言うことをきかなくなったり、同じ東大では精神科医師連合(精医連)ができて病院を占拠したり。そんな激動の時代が続くと、このあたりは田舎ですから大学からの派遣医師が来なくなりました。
八鹿病院はもともと名古屋大学の関連病院だったんです。しかし、大学側に余裕がなくなったのか、1965(昭和40)年ごろに名大出身の外科医が当院の院長になったのを最後に、鳥取大学の関連病院になっています。
もっとも、鳥取大学の関連病院になったからといってもすぐに医師が増えたわけではありません。10人ほどいた医師が大学紛争の影響でほとんどいなくなり、眼科や耳鼻科などは休診を余儀なくされました。まさに病院存続の危機であり、当時はさまざまなつてをたどって医師集めに奔走したものです。
1970年代からは、少しずつ医師が集まるようになってきましたが、2004年に新医師臨床研修制度が始まってからは逆に大学からの医師派遣をあてにすることが難しくなっています。大学の医局に医師が残らなくなった影響ですね。
1999年に院長職をゆずり、総長として2年間勤めたあとは名誉院長になりました。「名誉」職ですから、いわば"一兵卒"として働かせてもらっているわけで、現在はリハビリテーション科を担当しています。
2000年に回復期リハビリ病棟ができましたが、これは同種の病棟としては兵庫県内で最初にできたものです。スタートしたときからずっと関わってきた病棟ですので、愛着があります。
八鹿病院は病院施設が老朽化したこともあって2002年から新築事業を進め、2007年にグランドオープンしました(420床)。私が総長だった2000年ごろにはだいたい規模が決まり、設計図もできたため、新病院長にバトンタッチしたという経緯があります。
その当時、運営方針として「保健事業と医療福祉の推進」を掲げる病院が増えていました。実際は、これまでと変わりなく医療を中心に提供する病院がほとんどで、一流と呼ばれている病院ですら「保健事業と福祉」について具体的な方針を立てることができずにいました。
私は、「保健であれば人間ドックや検診を充実させなければならないし、福祉分野なら後遺症が残った患者さんのリハビリをやるべきだ」と考えていました。
緩和ケア病棟が必要だと考えたのも同じ時期だったと思います。
私は外科医ですから、胃がんの手術をした患者さんが再発して入院してくるということがよくありました。その患者さんたちを、主に外科病棟で診ていましたが、それでは片手間な対応になってしまいます。そこで、「新しい病棟として緩和ケア病棟を造る」と宣言したのです。がん診療連携拠点病院でも取り組んでいないところもあった時代で、新病院に緩和ケア病棟を造るというのは珍しい試みでした。
―リハビリにも重点的に取り組まれています。
リハビリを重視しているのは、「できるだけ後遺症をなくしたい」という私たちの夢を実現するためです。
約50年前に当地に赴任したとき、地域の暮らしをつぶさに見てまわりました。このあたりの家ではかつて、風呂を家の外に作っていました。いわゆる五右衛門風呂ですが、そうすると脊髄損傷や脳出血で半身不随になったりすると入浴できなくなってしまうのです。
また、地域を管轄する福祉事務所からの依頼で、重い障害がある方が日常的にどのような介護を受けているか調べたことがあります。
当時の養父郡域にあった80軒ほどをまわって驚いたのは、何年もお風呂に入っていない方がいたことでした。きれいなベッドで介護されているケースはほとんどなく、農家だと、患者さんを台所横の板間にゴザと薄いふとんを敷いて寝かせていました。枕元には水を入れたやかんが置かれ、横におにぎりとめざし、つけものが置いてある。
農家は朝から晩まで外で仕事ですから、これはしようがないことなんです。特にこの地域の農地は平野部と違って山奥にある段々畑ですので、寝たきりの患者さんのために家に戻ったりすることはできない。だから患者さんは日中一人だけで寝ていることになります。
このあたりは但馬牛の産地としても有名です。家に入ったら土間を挟んで右には牛、左には寝たきりの患者さんということも珍しくありませんでした。牛は大事な財産ですからきれいに磨き上げていますが、人間は風呂にも入れない悲惨な現状でしたね。
「これはなんとかせないかん」、と奮起したのが私の医師としての原点です。
それが1970(昭和45)年ごろで1980(昭和55)年にやっと無料の訪問看護を始めることができました。国内ではまだ珍しかったと思います。当時の記録が残っているのは、当院と東京にある白十字病院だけではないでしょうか。
保険制度もないなかで、どうやって訪問料を無料にしたのか。背景にはそのころから医師が増え始めたという事情があります。1979(昭和54)年に入って少しずつ医師が集まり始めましたが、そうすると外来患者さんが増えてきます。1日300〜400人だった外来患者数は、1985(昭和60)年には1000人を超えるようになりました。
これで経営状態が劇的に改善しましたので、公的病院として地域に還元するために、訪問看護を8年間も無料で提供することができたのです。
現在も鳥取大学の関連病院ではあるものの、大学からの医師の派遣は難しくなってきたようです。そこで、新たに兵庫医科大学(西宮市)第一内科の関連病院にもなりました。
自治医科大学の卒業生にも来てもらえるようになりました。兵庫県は県費で自治医大に2人と兵庫医大に5人の枠を設け、医師を養成しています。毎年7人は派遣されており、県内では淡路島や佐用町、あとは但馬地区に割り当てられています。医師の確保については少し楽になりましたね。
医師資格を持った地元開業医の子弟を、当院で育てるという試みも始めています。人材の確保こそ、地域の病院として存続し十分な医療を提供するための鍵となりますので、行政や大学と連携しながら有効な仕組みを模索したいと思います。