国立療養所 邑久光明園 青木美憲 園長

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ハンセン病に対する理解を深め差別、偏見の解消を

あおき・よしのり 1987 年、大学生のときに国立ハンセン病療養所大島青松園を見学し、ハンセン病では医者が患者を苦しめてきたこと、隔離が不要だとわかっていながら「らい予防法」が放置されていることを知り、医療者としてこの問題から目をそらすことはできないと感じた。大学卒業後に臨床研修を経て1997 年~大阪大学公衆衛生学教室で入所者の被害実態調査を行う。2000 年~国立ハンセン病療養所邑久光明園に勤務、国賠裁判で原告側証人として調査結果を証言した。2002 年~ハンセン病対策のためミャンマーへ派遣され、2004 年4 月~駿河療養所、10 月~邑久光明園、2006 年~大阪府保健所、2009 年~邑久光明園副園長、2015 年4月~現職。

 岡山市の東南35km、瀬戸内海に浮かぶ長島にある「邑久光明園」は、全国に13ある国立ハンセン病療養所のうちの1つ。療養所の現状と、その歴史について、青木美憲園長に話を聞いた。

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■ハンセン病をとりまく歴史

 当園はもともと、ハンセン病根絶のため、患者を社会から隔離するために作られた施設です。

 1907(明治40)年、法律第11号「癩(らい)予防ニ関スル件」が公布され、その法律に基づき、1909(明治42)年、全国5カ所に公立の療養所ができました。その1つが、当園の前身である「外島保養院」という療養所です。現在の大阪市にあり、主管は大阪府、2府10県の連合立でした。当時の院長は医師ではなく警察署長だったことからも、患者の取り締まりを目的とした施設であったといえます。

 この法律は、隔離については比較的緩やかで、自宅療養は可能、ただし、住居を持たない患者は収容すると定めていました。

そのころ、先進国では、ハンセン病患者は減っていましたが、日本では患者が多く、しかもホームレス状態にあるという現状を外国人に見せたくない、という国の考えもあったようです。

 1931(昭和6)年、新たに「癩(らい)予防法」が制定され、ハンセン病の疾病対策は大きく変わりました。すべての患者が療養所に一生、入所させられることになったのです。

 「ハンセン病=悪い病気」という誤った認識から、根絶のためには感染源である患者を一生隔離する以外にない、と当時の内務省(現・厚生労働省)は考えていました。加えて、「患者の人権を尊重する」といった意識もまだなく、「国を守る目的なら患者が犠牲になってもかまわない」という考えが強かったために、そのような法律が制定され、長い隔離の歴史が始まったのです。

 癩予防法制定と同じ年、全国の保養所を1000人規模に拡張する工事が始まりましたが、完成目前の19344(昭和9)年、室戸台風によって外島保養院は大きな被害を受け、壊滅状態になりました。在院患者173人、職員7人、職員の家族11人、工事関係者9人が亡くなる大災害でした。

 その後、国立ハンセン病療養所の第1号である「長島愛生園」が設置されていた長島の西端部が、外島保養院の復興地として決定され、この小さな島にハンセン病の療養所が2つ存在することになりました。

 戦後にできた新しい日本国憲法によって「人権」という意識に目覚めた入所者たちは、1951(昭和26)年、「全国国立らい療養所患者協議会(全患協)」を作り、国に対して隔離の見直しを訴える運動をおこしました。

 そのころ、この病気の特効薬は各療養所に普及し、治るようになっていたので、入所者は退園してもよかった。もともと隔離の必要はなく、外来治療でも疾病対策は十分可能だったわけですから。それなのに、1953(昭和28)年に見直された「らい予防法」は、隔離政策は残したまま。それまでと何も変わらない法律が通ってしまいました。

 これは、当時、ハンセン病の医学者であった光田健輔氏が国会で、隔離の強制、逃走罪について肯定的に証言し、さらには、入所者同士の結婚の際、当たり前のように行われていた断種手術を、「入所者の家族にも行うべき」などと発言したことが影響しました。

 入所者の人権を踏みにじり、科学的根拠も乏しい発言のために、その後も隔離は続くことになったのです。

■人間回復の橋

 それでも、入所者たちの運動は続き、徐々に療養所の外での生活も認められるようになりました。しかし、社会復帰できても、病気の再発や後遺症によるけがの治療を受け入れてくれる医療機関が外にはなく、何かあれば療養所に戻らざるをえなかった。なんら社会的支援のない状況での社会復帰だったのです。

 入所者の社会復帰に大きく影響したのは、1988(昭和63)年、2つの療養所があるこの長島と本土の間に「邑久長島大橋」が完成したことです。完成までに17年を要しました。

 それまで、本土との行き来は船や手こぎの舟を使用しなければならず、非常に不便、かつ不自由でした。ここに橋を架けることは長島愛生園と当園の入所者や職員にとって長年の悲願だったとも言えます。

 入所者の思いと希望が込められた、通称「人間回復の橋」とも呼ばれる邑久長島大橋が完成し、本土と陸続きとなったことで、自由に行き来できるようになりました。

 そして、長い長い闘いの末、1996年、念願だった、らい予防法の廃止が実現しました。「頭の上に青空が広がった」「頭の上の重しがなくなった」と話す入所者もいます。法律がなくなったからといって、橋ができたときのように、実生活に大きな変化はありませんでしたが、精神面でのインパクトはとても大きかったようです。

 法的に隔離はなくなったものの、問題点が2つ残りました。1つは、長年にわたって行われてきた患者の隔離が正しかったのか、間違いだったのかという点が明らかにされなかったこと。もう1つは、国が責任を認めなかったことです。国が責任を認めなかったことで、何の対策も進まなかった。社会復帰にしても、「今ある社会保障制度(生活保護など)を利用して社会復帰すればいい」といったスタンスでしたから。

 そこで、入所者たちは人生の最後をかけて、裁判を通し、「隔離が正しかったのか」を世に問うたわけです。そして、2001年、熊本地方裁判所で判決が出ました。隔離が誤りであったこと、それに対して国に責任があるということが、初めて公に認められたのです。

 2009年には、1996年制定の「らい予防法の廃止に関する法律」が廃止され、新たに「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」(通称:ハンセン病問題基本法)が施行されました。それに基づき、入所者の被害回復に向けて、国や自治体の協力が得られるようになりました。

 当園の始まりは、入所者を隔離するための施設でしたが、長い歴史を経て、今は、ハンセン病回復者がこれまで受けた被害を可能な限り回復するための施設になった、とはっきり言えます。

■全国初、療養所に特養

 当園で50~60年の間、過ごされてきた方たちは、今、人生最後の時期を迎えられています。その方たち一人ひとりに、最期の時、「生きていてよかった」と思ってもらうことが、もっとも大事だと思います。

 そのためには、将来に渡って安心できる、質の高い医療・看護を提供することが不可欠です。何より、入所者を向いた園の運営がされなければいけないと思います。

 また、社会復帰については厳しい状況が続いています。法律や制度の改正がなされたものの、長年の隔離政策によって、今では帰る場所もなく、社会との絆が断たれた方が多くいらっしゃいます。それなら、療養所を丸ごと社会復帰させる、つまり、療養所を開放して、周辺地域から大勢の人に入ってきてもらおうと考えました。

 みんなで話し合って高齢者の施設を造ることに決めたのです。県や市の協力もあり、構想から7年、今年2月に特別養護老人ホームの誘致が実現し、運用が始まりました。

 まだ始まったばかりではありますが、入所者と地域の方々の交流を深められる場所にしていきたいと思っています。


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