開業から60周年。夢は、高齢者と若い世代が共に生きる施設作り
―昨年は、開業から60周年という記念の年でした。歩みを教えてください。
1955(昭和30)年に父・頴原俊一が、結核予防法に基づく指定医療機関として、武久病院を開業したのが始まりとなります。木造2階建て、病床数は30床でした。
当時、地域には海運労働者が多く働いており、父はそのような労働者のための病院が必要だと考えたようです。その後、抗生物質の普及で結核が激減しました。
父は、往診をするなかで、若い世代が都会に出て、お年寄りが一人暮らしをする状況が増えていることにいち早く着目し、いずれその構造が問題になってくると考えたようです。
このため、1967(昭和42)年には福岡県北九州市に高齢者を対象にした春日診療所を開設。1973 (昭和48)年に武久病院を特別許可老人病院としてスタート、1978(昭和53)年には医療法人社団青寿会を設立し、結核病床を一般病床へ移行させました。1987(昭和62)年には506床に増床、また当時全国で7カ所指定された老人保健施設モデル事業を開始し注目されました。翌年には介護老人保健施設「青海荘」を開設。その後は認知症対応型のグループホーム、有料老人ホーム、訪問看護ステーションなども運営し、現在は武久病院を中心にして、切れ目のない、医療・介護・福祉のサービス体制を確立しています。これからも各施設の充実をはかっていきたいと考えています。
―頴原理事長ご自身については。
私は、医療法人化する際に30代で理事長に就任し、以来30年余りが経ちました。
頴原家は、元々長州藩士で、江戸時代に私の7代前の頴原隆庵が長崎で医学を学んだことに始まり、代々医師の家系です。
父も戦時中に韓国で企業立の病院を開業したそうです。父からはそのような話をずっと聞かされていましたので、いずれは私も医者になると覚悟していました。父は、95歳で亡くなるまで医師としてずっと現役でした。私に直接何かを言うタイプではなく、自分のやり方を見ておけ、というような人間でした。怖い存在でしたが、非常に人間味あふれる親でもありました。この病院の開業をした父の考え方である「弱者救済」は、私の基本でもあります。
―国は病床数を減らし、病院から在宅へという方針を打ち出しています。
ベッド数を見直すという流れは仕方ないことかもしれませんが、14万床を減らすという数値を出すのであれば、具体的な基盤整備をしていただきたいと思います。
また、療養病床を減らすということは、国民の死に方の問題にも関わります。現在、病院で医師にみとられて亡くなる方は8割余り、これを変えていくということは、家庭で亡くなるということをどう受け止めるか、国民のコンセンサスが必要だとも思います。
病院というのは、実は一番効率的なやり方で患者さんを診てきたのです。たとえば5人を診る場合、各家庭に出向いて医療を提供するとなると、午前中いっぱいかかってしまいます。今後は、介護関連の施設が集まっている中で、医療的な管理ができる体制が望ましいのかもしれません。
―これからの10年、どんな施設を目指しますか。
病院では、在宅復帰を支える地域包括ケア病棟や回復期リハ病棟を目指したいと考えています。リハビリの職種はある程度そろっています。開院当初から、入院された方を廃用症候群にしないという矜持(きょうじ)を持ち、リハビリについては、特に力を入れています。
また、介護関連の施設では新しい取り組みも考えています。私の夢ですが、たとえば、有料老人ホームで、家賃を安くして若い人も住めるようにし、高齢者に若い世代が溶け合うようにしてはどうでしょうか。
老人ばかりを集める必要はないと思います。もともと高齢者と子どもは相性がよく、子育て世代は子どもの世話をしてもらえます。高齢者と子どもが夕食やレクリエーションを一緒にする施設、できそうな気もしますよ。
当院には、院内保育園も併設し、働きやすい職場を目指しています。また、入れ歯や口腔内の衛生管理など高齢者の口腔ケアの重要性に早くから注目し、歯科は、すでに20年前から併設しているのも大きな特長です。
下関市武久町2丁目53番8号
TEL:083-252-2124(代表)