医療法人神徳会 三田尻病院 豊田 秀二 院長
―この病院の強みは。
地域に広く根を張っている病院だと思います。140年の歴史があり、病床は144床ありますが、だからと言って敷居の高さがない。これからもずっと、地域の人が利用しやすい病院でありたいと思っています。
昨今の山口県の医師減少の影響もあり、常勤医がマルチプレーヤーでないとなかなかやっていけません。私は外科医ですが、いつも診ている患者さんが外科に来て何を言うかというと「先生、風邪ひいた」。一度知り合った患者さんに求められれば何でも診て、必要があれば専門を紹介する、ゲートキーパー的な役割が必要になっています。
この病院は地域災害拠点病院で、私はDMAT(災害派遣医療チーム)隊員として災害医療も一生懸命にやっていますがこの病院での診療スタイルはそのまま災害医療にも結びつくと感じています。災害医療はニーズに応え、ニーズに合わせて変化することが大切。私たちの診療も同じです。そして、これは院長としての病院経営でもそうだろうと思うのです。
―災害医療に情熱を注ぐようになったきっかけを聞かせてください。
2009年7月、防府市で豪雨による水害が発生し、特別養護老人ホームが土石流に流されるなど大きな被害が出ました。
その日は雨でした。でも、病院周辺は静かで、普通に診療をしていたんです。救急隊員から、「先生のところは患者さん何人診れる?」と聞かれた時も、まさか災害だと思わず「外科医2人だから4人かな」なんて、かわいそうなことを言ってしまって。その4人が運ばれてきたところで救急隊から「大変なことが起きている」と聞き、そこで初めて状況を知りました。
その夜は嫌な予感がして、もう1人の医師と遅くまで残っていました。すると夜になって、行くあてのない特養の患者さんを受け入れてほしいと市からの要請が入り、そこから右往左往ですよね。
結局、この病院では17人引き受けて、うち2人が亡くなっています。当時、私はまだDMAT隊員ではなく、準備を始めていた時期でした。あの災害以降、勉強をすればするほど、初期対応が良ければ「防ぐことができた災害死」だったのではないか、という思いにかられます。それをずっと背負っていかないといけないと思っているんです。
あのころはまだ災害医療についてみんな知識不足だった。仕方ない。確かにそうなのですが、勉強すればするほどわかるということは、もっと早く勉強しておけばよかったということなんです。
2011年3月の東日本大震災の被災地にも延べ3週間入りました。3月末でも夜の気温が氷点下。小学校に派遣されて、「学校の床はこんなにも冷たいものなのか」と感じました。そして、その中で文句ひとつ言わずに耐えている被災者をすばらしいと思っていました。
でも、今思うと、耐えさせた自分たちが悪い。いろいろ学ぶ中で、世界的に見て日本ほど質の悪い避難所を開くところはないと知りました。「スフィアプロジェクト」という国際的な基準に照らし合わせてもまったく合致しないことも分かりました。
あのときは感染症を防ぎきり、支援者たちも頑張りました。でも「耐えてくれるからいい」となっていなかっだろうかと振り返って思います。「未曽有の災害だから」と言う言葉で片付けるのは簡単ですが、そうではなく次に生かさなければなりません。
―これらの経験は院長としても生きると。
「災害医療は医療の原点」です。被災者は耐えます。患者さんも耐えます。文句を言っていない人が本当は何を思っているのか表情や感覚で感じることが必要です。
病院経営の面から言うと、災害医療は持ち出しばかりです。だから熱心にやろうとすると軋轢(あつれき)が生まれることも多くあります。でも、被災地で経験することはものすごく大きい。それを医療に生かせたら、そういう人がいればいるほどいい病院になると思うんです。
だから、正直に言うと、災害医療を一生懸命やる医師や看護師、医療スタッフをこの病院にどんどん雇いたい。そして何か災害が起きたときには「行って良いよ、僕がここにいるから」と言いたいんです。
実は、災害関係を一生懸命やる医師や看護師はいろいろなネットワークを持っていますし患者さんもついてきます。ですから最終的には、経営という面でもいいのではないでしょうか。「損して得を取る」。私の座右の銘のひとつです。
―災害医療を担う後進の育成は。
災害時にはとにかく求められる仕事をすることが必要です。それは医療ではない場合もある。「医者の仕事しかしません」ではだめですよね。
思いのある人にやってほしいのですが、なかなかいないのが現状です。さらに資質を見て育てないといけません。生半可なひとは作りたくない、という思いもあります。今後の課題ですね。