にのさかクリニック バイオエシックス研究会 鐘ヶ江寿美子
「いのち」はさまざまな意味を含有するが、評論家の米沢慧氏は、いのちを「臨死」と表した。今回のセミナーでは、「いのち」は誰もが避けることのできない「死」から始まるという事実と真摯(しんし)に向き合った。
長寿社会の今、死の受けとめかたが問われる。死に臨む人にきちんとつきあうには、「命を物語る」プロセス、葬送の儀式がある。しかし、家族や地域で粛々となされた葬送の儀式は簡略化され、プロの手にまかされ、今や消失しかけている。
米沢氏は故郷、出雲で少年時代に経験した肉親の死、入棺、野辺送りにまつわる原風景を説明した。命は個人的なものであり、命を物語ることは、自分を物語ることでもある。肉親の死に臨むとき、危篤の知らせの瞬間、過去がフラッシュバックされ、命は物語られる。同時に、葬るその人と関係性を持つ「私」も、自らのアイデンティティを再認識する。その人の死を死亡診断書にある「死因」、病気の物語に終わらせてはいけない。「いのち」を物語り、内側できちんと受けとめることが大切である。「息をひきとる」は、いのちを「引き継ぐ」なのである。
斎藤茂吉に物語られる命―死にたまふ母 59首より
山形県出身の歌人であり精神科医である斎藤茂吉は、生みの母の死を処女歌集「赤光」(1912年、茂吉24―32歳)で見事に物語っている。セミナーでは、危篤・臨終・葬送・悼詞の4つに分けられた歌集の一部が紹介された。
其の1=危篤の報せ11首...5月中旬、初夏の東京、茂吉に母危篤の知らせが入る。上野駅より夜汽車に乗り込み、藤の花が咲き始めた初春の山形へ帰郷する。山形の駅では弟とばったり会う。
▼ひろき葉は樹にひるがへり光つつかくひろひにつつしづ心なけれ
▼みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞいそぐなりけり
▼うち日さす都の夜に灯はともりあかかりければいそぐなりけり
▼上の山の停車場に下り若くしてはいまは鰥夫のおとうと見たり
其の2=看取り、臨終14首...養子に行った茂吉と弟は実の母への思慕が強かった。養蚕(ようさん)業がさかんな山村にて、命の灯が消えゆく母と蚕の生命力が対比される。
▼はるばると薬をもちて来しわれを目守りたまへりわれは子なれば
▼寄り添へる吾を目守りて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば
▼桑の香の青くただよふ朝明に堪へがたければ母呼びにけり
▼母が目をさまし離れ来て目守りたりあな悲しもよ蚕のねむり
▼のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり
▼いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死ゆくを
▼ひとり来て蚕のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり
其の3=葬り道、野辺おくり14首...自ら母を火葬し、骨を仕舞い、母の死を受けとめる場面。
▼葬り道すかんぽの華ほほけつつ葬り道べに散りにけらずや
▼わが母を焼かねばならぬ火を持てり天つ空には見るものもなし
▼星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり
▼蕗の葉に丁寧に集めし骨くづもみな骨瓶に入れ仕舞ひけり
▼うらうらと天に雲雀は啼きのぼり雪斑らなる山に雲ゐず
▼どくだみも薊の花も焼けゐたり人葬所の天明けぬれば
其の4=悼詞20首...母の葬儀を終え、温泉につかり、やすらぎを取り戻す。味覚も戻り、日常に戻る。
▼山かげに雉子がなきたり山かげの酸つぱき湯こそかなしかりけれ
▼酸の湯に身はすつぽりと浸りゐて空にかがやく光を見たり
▼遠天を流らふ雲にたまきはる命は無しと云えばかなしき
▼湯どころに二夜ねぶりてじゅん菜を食へばさらさらに悲しみにけれ
▼山ゆゑに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの母よ
「物語られる命」そして、命を受けとめる町づくり
在宅医療の現場では、亡くなった家族の命を物語る遺族との出会いがある。祖父を家族とともに介護し、自宅で看取った10歳の女児は、葬儀で祖父を知る人々から、彼の生前の話を聞いた。彼女は今、「生きることとは、一人ぼっちではないこと」と話してくれる。
癌の夫を自宅で介護し、最期は緩和ケア病棟で看取った妻は、病棟での記憶があやふやだと語る。緩和ケア病棟でも夫を甲斐甲斐しくケアしていた妻を知るだけに、少し意外だったが、暮らしの匂いは「命を物語る」エッセンス、重要な舞台と再認識した。
佐賀に「在宅ネット・さが」という在宅療養をサポートする医療・介護専門職、市民でつくるボランティア団体があり、8月22日に市民公開講座「看取りをささえるまちづくり」が開催された。ニノ坂保喜氏と米沢氏の基調講演があり、ニノ坂氏は「途上国に学ぶホスピス運動」、米沢氏は「いのちの受けとめ手になること」について話した。
米沢氏は、市民ホスピス運動では命を「受けとめる」視点が大切であり、一人一人の死ときちんと向き合うことが、「命を受けとめる町づくり」の第一歩だとコメントした。