頸椎損傷、脳出血を乗り越え一人の人間として患者に向き合う

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医療法人 永眞会 青葉台病院 永田 貴久 病院長

■略歴 1991 産業医科大学医学部卒 1992 同第1 外科学教室入局、臨床研修医 1993 労働福祉事 業団九州労災病院外科/胸部血管外科 1995 産業医科大学病院第1外科専修医 1996 労働福祉事業 団門司労災病院外科 1998 産業医科大学医学部第1外科非常勤助手、鹿児島県労働基準協会鹿児島 労働衛生センター産業健診医局長 2000 同診療部長 2004 同所長 2005 医療法人永眞会青葉台病 院診療部長、論文提出により学位(医博)受領 2006 同副病院長 2008 同病院長
■資格等 日本外科学会外科専門医、日本人間ドック学会認定医、日本乳癌学会認定医、臨床研修指 導医、福岡県医師会認定総合医、日本医師会認定産業医、労働衛生コンサルタント(保健衛生)、産 業医科大学医学部第1外科学非常勤医師など。

 内科・胃腸科・呼吸器科・循環器科・リハビリテーション科を標榜し、地域のための外来機能と、基幹病院などの後方支援機能を併せ持つ、福岡県北九州市の青葉台病院。同院の永田貴久病院長に、これまでの歩みや願いを聞いた。

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亡父、永田隆一さんが描いた故郷・桜島の絵の前に立つ永田貴久病院長。

母の死をきっかけに

 私が医学部を目指そうと思ったのは、25歳の時でした。母が肝臓がんで亡くなり、「どうして死ななければならなかったのか」と疑問を持ったのがきっかけです。翌年、産業医科大学に入学。運が良かったと思います。

 大学2年に進級したその日、ハンドボール部の練習でウエイトトレーニングをしていて、首に痛みが走りました。次第に腫れてくるし、あまりに痛い。大学の病院に行くと、頸椎損傷で即入院となりました。1カ月後に手術、その後しばらくは寝たきり。大学を1年間休学し、治療とリハビリに当てました。

 当時、泌尿器科教授で学生部長だった杉田篤生先生がけがの直後に休学を勧めてくれました。整形外科教授だった鈴木勝己先生をはじめ整形外科にもお世話になりました。第1外科に入局した時には鈴木教授から「うちに入ると思ってたのに」と言われましたね。

 入局の決め手は当時教授だった大里敬一先生との出会いです。たまたま第1外科に先輩がいて、大里先生に会わせてくれました。私は、医師になるのが他の人より8年遅かった。それが自分で気になっていました。でも大里先生は「遅れは心配せんでいい。8年遅れたら、人より8年長生きすればいい」と。もともと尊敬していましたが、進路を決める時期に会わせてもらい、これも縁だと思いました。

急激な頭痛に襲われて

 入局後は、医局からの派遣で福岡県内の労災病院などに勤務した後、1998年に鹿児島県の労働衛生センターへ出向しました。私は鹿児島県の出身でしたから、「地の利があるだろう」ということもありました。

 当初は2〜3年の予定だったのですが、だんだんと任される仕事が増え、所長になりました。「もうここで定年を迎えるんだな」と思い始めていた46歳の10月のこと。仕事が終わり官舎に戻ると、急激に頭が痛くなりました。さらに、右半身が動かない。「これは脳血管障害に違いない」と思いました。

 この時、私は単身赴任で家族は北九州。自分で救急車を呼び、救急車を待つ間に、副所長の伊藤亜紀先生ら2人に電話をして「明日から頼む」と言いました。

 また、当時の産業医科大学第1外科教授、伊藤英明先生にも電話して、自分は脳血管障害の可能性が高いこと、指示系統に混乱が生じるので派遣を切り上げさせてほしい旨を伝えました。

 その後、意識を失いましたが、搬送が早かったため出血範囲が狭くて済みました。退院後、すぐに大学に戻るのは難しいだろうという伊藤英明先生の判断で、1年間、青葉台病院に出向することになり、そのまま、今日までここでお世話になっています。

 ここの理事長の名字も私の名字も「永田」なので親戚だと思われるのですがそうではなく、私はいまだに、大学からの派遣扱い。今も毎週火曜日は大学で手術に立ち会って勉強させてもらっています。

自らの経験生かし

  頸椎損傷と脳出血を経験していますので、患者さんが言うしびれなどの感覚はよくわかります。「しびれが戻らない」と言う患者さんには、「新しい体だと思って慣れる方が、機能回復が早い気がするよ。僕がそうやけん」と伝えます。そうすると、お年寄りは話を聞いてくれますし、納得してくれることが多い気がします。

命が消えるまで

 どんな状態であっても、許される範囲で動き、感情を表出することが、その人らしく生きることだと私は思います。人間はいずれ死にます。医療は、その人が生き生きと生きることを支えることしかできません。

 当院の入院患者の半数はがんの末期の方です。モルヒネや硬膜外麻酔で体の痛みを取ることができても、眠れるよう睡眠薬を使い、抗不安薬を使っても、死への恐怖や不安は取れない。そこからは魂の問題になります。

 そんな時に、われわれ医療スタッフにできるのは話を聞き心を寄せること。医学知識は当然必要ですが一人の人間として向き合うとき、良質の人間であるかが要求される。スタッフにもそれを問いたいと思うのです。そして、たとえ看取ることになったとしても、「この病院で良かった」と患者さんや家族に思ってもらえたらと願っています。


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