3時半の男 稗田 尚

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 福岡市営地下鉄天神駅のホームで電車を待ちながら後悔していた。

 一本早めるか遅らせるかすればよかった。あるいは、ここではなく別の場所で待ってもよかった。

 私のすぐ左に、がっしりして背が高く、頬に長い傷跡のある、若いころは闇の世界でしのいできたと一目でわかる初老の男が立っていた。もしやと思ってちらりと手を見ると、やはり指が何本も欠損して、切り口は絆創膏や包帯でぐるぐる巻いてあった。

 私の視界の端っこに彼がおり、それは彼も同様だろうから、ここでどこかに歩き去ろうものなら、オイこら待てと呼び止められそうな面倒臭さが、私をその場に縛りつけていた。だから息を殺して透明になろうと努めながら、この顔面凶器の男がどこかに去ってくれるか、電車が早く来てくれればいいのにと願った。でもこんな時に限って電車は来ないし、男も左にずっと立ったままである。

 突然その男が私の左手を強くつかんで引き上げた。そして強引に手のひらを開いた。びっくりした私は右手に拳(こぶし)を作って身構えた。

 男は私の左親指の付け根を押しながら、あんたの肝臓はまだ大丈夫だなと言った。大立ち回りをせずに済みそうでほっとしながらも、何のことかわからなかった。

 俺のを見てくれと男は言って手のひらを出し、赤黒く変色した親指の付け根を見せて、あと十年は生きたかったんだがと、力なく言った。

 ここでなにかうまい言葉を返すべきなのだろうが、とっさのことで思いつかない。すると口が勝手に動いて、「五時の約束が三時半になってしまう手ですね」と言った。そして、ああ、これで私もおしまいかとあきらめた。しかし男は、面白そうにふふんと鼻で笑っただけだった。そこにようやく列車が入ってきた。

 私と男は同じ車両に乗り、彼が座って私が正面に立った。混んではいなかったが、どれほど混雑していても彼なら必ず座れるだろうし、まわりに広い空間もできるはずである。

 横に若い女性が寄り添うように座って私を見ていた。どんな関係かわからなかったが、まさか小指を立てて「コレ?」とたずねるわけにもいかない。娘さん? と聞いたら、女性のほうが「はい」と笑って答えた。

 「法学部を出たんだ。いま国家公務員になる勉強をしている。今日は天神まで買い物に来た」。そう男が自慢した。娘がなぜ法律の道を選んだかがわかりそうな気がしたが、そこを問い返して聞きたくもない答えが返ってくるのも面倒だった。だから、「あなたはお父さんが好きなんですね。次にまた選ぶとしたらこのお父さんでしょう」と当たり障りのない言葉をかけると、本当にうれしそうに、はっきりした声で、はいと言った。

 「目が覚めたのが遅かったよ俺は」。男は私の目を見た。

 彼が言うには、泥酔して家の近くの大溝川に落ち、土手でパトカーと救急車が赤色灯を点灯させて待機する中、自分を背負おうとしてずぶ濡れになっている娘に気がつき、もう足を洗おうと思ったという。冬の深夜三時ごろのことで、何事かと近隣住民も集まっていたそうだ。足を洗う前に全身を洗ったわけですねとはさすがに言えなかった。二人は千代県庁口駅で降りた。

 天神駅で彼は誰かと話したかった。でも選んだ相手が弱ければ悲鳴を上げて逃げ出すか警察を呼ばれてやっかいなことになる。かといって強ければ、過去の古傷と老いがたたって叩きのめされる。弱くも強くもない、ちょうどいいところに私がいたとすれば、あの男の目は節穴ではなかった。


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