医療法人協愛会理事長/社会福祉法人正清会理事長 阿知須共立病院 病院長 三好 正規
■日本内分泌学会専門医、日本内科学会認定内科医、日本臨床内科医会専門医、日本医師会認定産業医、同認定健康スポーツ医、日本人間ドック学会認定医、人間ドック健診専門医・指導医 ■山口県医師会裁定委員、吉南医師会議長、日本内分泌学会功労評議員、社会福祉法人清光園理事。
阿知須共立病院(山口市阿知須)の三好正規病院長は、毛利藩筆頭家老の典医を先祖に持つ。8代目になるという。昨年11月30日に新病院を竣工し、全面的に移転する。家系や生まれ育った阿知須への思いもふくめて語ってもらった。
当病院は1770年に初代三好玄良が、萩の地において医術を習得し、以後、毛利藩筆頭家老宍戸家典医として医業に従事したことが始まりで、この間、萩より山口市佐山に移っています。そして100年後の1870年には五代三好文治が阿知須に居を移し、佐山・阿知須両地区で医療を行ないました。六代三好正一も引き続き両地区で医療を行なっています。当家の特長として地域の教育に熱心で、このころも医療の傍ら、佐山や阿知須で寺子屋も開いていたようです。
そして時代の大きな動きの中で昭和25年(1950)年の暮れ、七代目に当たる私の父、三好正之が現在地に三好医院を開業、以降、三好医院から三好病院、そして昭和33年(1958)には医療法人協愛会阿知須共立病院として、三好正之が理事長と病院長を兼任する体制で新たにスタートしました。その後も地域のニーズに応じて入院機能を徐々に拡大し、昭和55年(1980)に私が病院長に就任、老人保健施設や訪問看護ステーション、人間ドック事業や通所リハビリなど、地域の方々が安心して暮らせるように、医療と福祉を充実させながら安定経営を目指し、平成20年(2008)に創立50周年を迎えました。そして平成22年(2010)に透析センターを開設しました。
私の祖父、六代目の三好正一から、私の孫までみんな同じ小学校に通いましたから、地域の方々と常に関わり合い、親しみ合い、むつみあいながら大きな人間関係を築いて今日まできました。したがって地域に密着し、周辺もあわせて5万人から7万人の生活圏の中にある病院だと理解してもらえばいいですし、私もここで生まれ育ったわけですから、当病院や関連施設を利用していただいている方の多くを存じ上げています。そのような中で時代とともに進化し、OBの職員の皆さんが燃えるような情熱を持って学会発表にも臨み、高齢社会を見通して特養や老健など福祉関係の施設をつくったのがこの20年、30年のことです。
ですから我々の病院は、医療法人協愛会と社会福祉法人正清会の連環によって、よりよいものを求めて努力しているところです。
そのような流れの中で建物が老朽化し、2011年3月11日の東日本大震災で耐震化が叫ばれるようになったことも影響して、この際新しく病院を建て替えようということになりました。このことは創立50周年の時に、次の50年に向けての「ネクスト50」にも掲げていたことです。場所はJR阿知須駅の西側、ショッピングモールも近くにあり、有機的な結合ができれば共存共栄ができるのではないかと思います。
その際、新しいコンセプトとして、安全と安心の提供、地域との密着によって癒しの空間の創出、さらには地球環境への配慮、アメニティと機能の充実、次世代まで持続可能な病院であること、そして地域との共生など、さまざまな面から斬新なデザインで、待ちに待ったグランドオープンを今年2月1日に迎えることになりました。地域からの期待も大きいと伺っています。
折しも山口大学は今年2015年に、私塾「山口講堂」創設から創基200周年を迎えます。あるいは吉田松陰先生や松下村塾など、教育が念頭にある土地柄かもしれません。維新の志士の姿に、常に改革の意識を持ち、外国に目を向ける気持ちを感じます。
人を人たらしめるにはバックボーンが必要です。そのためには教育が必要で、その教育を支え、生かすために、医療という側面が、山口県にはあったのではと思いを馳せています。当病院の先祖が小さいながらも寺子屋を営んでいたことからも、それを感じますね。
駅西に完成する新病院が、これまでもそうだったように、これからも、阿知須その周辺の新しい時代を支えられればと思います。
ありがたいことに、目の前に一人の患者さんが座られますと、その背後に家族の方々の顔がたくさん思い浮かびます。また、看護師とともに訪問診療をする中で、私だけでなく職員もこの地域に恩返しできていることを強く感じます。