数年前から人工透析を受けていた母が4月に亡くなった。89歳だった。
透析中に消化器官から出血し、故郷の市立病院に救急搬送された。姉からの連絡を受け喪服を持参し、救急病棟に駆けつけた。以来、仕事をやり繰りしながら毎日見舞いに通ったが、2週間後には父の許に逝ってしまった。
人工呼吸器をつけていたため話せなかったし、最後の一週間は透析も出来なくなっていた。しかしながら、気丈な母は最期まで意識ははっきりしていた。お陰で別離を惜しむのに十分な時間をもらうことができた。
この数年は、体重が30キロまで落ち、骨と皮だけになっていた母の手や頬、額にキスをしまくった。「愛してるよ、ありがとう、可愛いよ、感謝してるよ」と毎日毎日連発した。母は確かに頷き、時には微笑み、時には涙も浮かべた。
父は私が16歳のとき大腸癌を患い、50歳の若さでこの市立病院で息を引き取った。信心深かった母は、父と同じ病院で逝くことを仏様に感謝したことだろう。
母は、父が残した母への恋文(遺書)をベッドの下から見つけ、「それを心の支えにして頑張ってきたとバイ」と、父の33回忌の法要の席で私たちに、その恋文を初めて見せた。
通い初めて一週間経った頃だろうか。市立病院の正面のロータリーにシンボルツリーが聳え立っているのに気づいた。なんと大きなことか。威風堂々、天まで届きそうな勢いである。そう、私も兄もトンネルビジョンに陥っていたのだった。心も暗くなり、うつむき加減で病院に向かい、うつむき加減で病院をあとにしていたのである。
翌日、院内ですれ違った若い医師に大木の名前を尋ねた。いとも簡単に答えが返ってきた。「メタセコイアですよ」と。その言葉から「メタセの森」という名の道の駅が築上郡築上町にあることを思い出した。化石燃料である石炭のもとになっている木の名前にちなんで名付けられたと聞いていた。この大木も、大蛇山まつり以外では賑わうことが少なくなった我が故郷の往時を偲ばせるシンボルツリーだったのである。
この大木のように、我が故郷がいつの日か、再び活況を取り戻すことを願った。
49日の満中陰の法要も済ませた。母亡きあとの実家は空き家となった。県内に住む姉や兄と相談し、月命日には住職に来てもらい線香をあげようと決めた。母は47年間続けたが、私たちは、当面3年間は毎月お参りしようよと決めた。
明日は百箇日である。そして、来週は初盆を迎える。
母は47年ぶりの父との再会を無事に果たしたであろうか。口べたで無口であった父は、母をどのように迎えただろうか。(モクレン)