徳島大学病院 病院長 安井 夏生
徳島大学病院は県内唯一の特定機能病院として高度医療の診療、教育、研究を行なっています。徳島県内には県立中央病院、市民病院、徳島赤十字病院、鳴門病院などがあります。これらの病院群と連携しながら、地域に根ざし世界を見すえた高度医療を行なうのが徳島大学病院の役割だと思っています。
徳島大学発の治療法、診断法を生み出していきたいと思っています。ただ日進月歩の医療の世界で全て自分たちのオリジナルの方法だけで治療、診断を行なうのは不可能です。次々と開発される新しい治療法を取り入れて、世界に取り残されないようにしなければいけません。たとえば徳島大学では約2年前に四国で初めてダ・ヴィンチを導入しました。当初は機械に任せて大丈夫かと危惧する声もありましたが、10例ほどの手術をこなすと、安全性がわかり、最近は前立腺癌の手術はダ・ヴィンチなしでは不安になるほどとなりました。若い先生は、次々と開発される新しい治療法、診断技術の進歩に付いていかなければなりません。
私はもともと整形外科医です。骨を切ったり繋いだりする大工仕事が得意です。
入局したばかりの若い人に金槌と釘を渡し、机の真ん中に印をつけ、机の裏から釘で印を打ち抜く作業をさせてみると、勘が良いか悪いかがわかります。見事に印の中心に打つ人、1センチくらいずれる人、大きくずれる人とさまざまです。これは知識や経験とは関係なく、もって生まれた立体感によるものですが、外科医にとって立体勘が優れていることは重要な資質です。
ロボットは勘に頼らずとも計算づくで正確な手術をしてくれます。ただロボットを扱う外科医にはやはり立体勘が求められます。たとえばダ・ヴィンチはこちらが指示を間違わない限りミスなく、安全な手術をしてくれるのです。
現在、新しく建築中の外来棟にはハイブリッド手術室の設置を予定しています。これまで心臓手術は開胸して弁置換していましたが、ハイブリッド手術では血管の中を通してカテーテル操作で弁置換ができるようになります。これも四国では初導入です。新しい技術の開発に伴い、かつて名医で「神の手」と呼ばれていた医師が、やはり「人間の手」だったと言われる日が来るかもしれませんね。
外来棟は東日本大震災前に建築計画していたので、予算組をした当初と比べると平方メートルあたりの単価がすごく上がってしまいました。東北の震災復興事業の影響ですが、人件費、材料費が高騰したのが原因です。予算面で苦労していますが、新外来棟には患者さんの呼び出しシステムの導入、会計や受付も部門ごとに行なうなど、利便性を考えた外来にする予定です。
私は学生時代には剣道に明け暮れ勉強はあまりしていませんでした。医学部の学生としてはそれなりの実力で四段を取りました。剣道をすることで体力がついたかもしれませんが、それ以上に身についたのは「何が何でもやり抜くぞ」という気構えです。剣道の試合中、防具のない場所を打たれても、終わるまではまったく痛みを感じません。それと同じで、長時間の手術をしても途中でしんどいと思うことはありませんでした。それは剣道で培われたものかもしれません。
私の剣道の師匠は、昨年亡くなった勝沼信彦名誉教授です。勝沼先生は世界的に高名な生化学者でしたが、私にとっては剣道の師匠のイメージのほうが強烈でした。毎日のように道場に現れて稽古をつけていただきました。どちらかというと剣道の先生がついでに生化学の教授をやっているように私の目には映りました。
私は平成13年1月に徳島大学の教授に就任しましたが、その時に勝沼先生から「すぐ剣道部長に就任してくれ。そして君の祝賀会は道場でやろう」と言われ、本当に剣道場で歓迎会をやっていただいたのが印象に残っています。歓迎会とは剣道大会のことで、そのOB戦に私も出場せよとのことでした。私は卒後26、27年も剣道はやっていなかったので、勝沼先生に「稽古もしていないので無理です」と言ったのですが、許していただけません。「君は防具を付けて構えているだけでいいんだよ」と言われたので、試合に出ることにしました。ところが試合当日になると勝沼先生が来て「出る限りは勝たなければだめだ」と言われてしまいました。久しぶりの剣道で、防具も以前よりずっと重く感じました。相手は剣道部学生で現役のキャプテンです。私は動き回る相手を見据え、自分の得意な間合いで面を打つことだけに集中しました。すると運よく、というか見事にメンの一本勝ちを収めることができました。鮮烈な復活です。
それから5年後の平成18年には関西医歯薬学剣道大会が徳島で開催されました。私は主催校の剣道部長として開会の挨拶をさせられましたが、勝沼先生から午後のOB戦に出場するよう言われて出ることになりました。当時私は58歳、他の参加者はOB戦とはいえ30歳以下の人がほとんどでした。この時も自分の得意な面だけを狙う戦法で、運よく3位になりました。勝沼先生からは「なかなかやるな。でも1位にならないと意味がないよ」と言われてしまいました。
剣道の試合を見ていると分かると思いますが、お互いの竹刀の先を交えてけん制し合っているように見えると思います。あれは中心の取り合いをしているのです。自分の竹刀が相手の中心の位置に来た時に打つと技が決まります。自分の竹刀が中心を外れているのに無理して小手先の技を繰り出していると負けてしまいます。打つなら打ってみろ、という気迫を込めて相打ちの精神で戦うことが勝利の秘訣です。私は学生時代にこのことを覚え、頭の中にはずっとそのイメージがありました。でも体は学生時代と同じようには動きません。腕力も衰え、瞬発力も落ちています。しかしどこかに学生時代に覚えた精神が残っているのでしょう。構えているだけで相手に気迫が伝わるのか、警戒して下がってくれます。相手が怖さを我慢できずに打ちこんでくるタイミングを見計らい、ここぞとばかり全力を込めて捨身で面を打ちこむのです。相打ちでよいと思って打ったはずのメンですが、何故か相手の竹刀が外れていてこちらに旗が上がるのです。その戦い方を繰り返したのが勝因ですね。
ゴルフも趣味ですが、下手くそで剣道のようには上達しません。剣道は相手がいるので、多少自分がミスをしても相手も見逃して打ってこない場合があります。ゴルフは動かないボールが相手のスポーツなので逆にごまかしがきかない面があります。しっかりとボールにクラブが当たらないとまっすぐに飛んでくれないところが難しいですね。
私の家は代々医者の家系で、系図が正しければ私は七代目ということになります。子供の頃から医師になるのが当たり前として育ったので、幼少期に祖母から「あなたは何科に進むの」と聞かれたのを覚えています。小学生くらいまでは素直に医者になろうと思っていましたが、中学、高校生になると悪い友人と遊ぶのが楽しくなり、まったく勉強をしなかったので成績はひどい有様でした。医学部どころかどこの大学にも入れない成績でした。
高校時代の悪友たちは大阪のミナミの飲食店の息子が多く、卒業すると家業を継ぎましたが、私の父親は勤務医でしたので自分には継ぐものがないことに気づきました。「がんばって医者になるしかない」と一念発起し、一年浪人して徳島大学の医学部に入学することができました。危うく道を踏み外すところでしたが、何とか立ち直れたのも、高校時代から剣道をしていたからかもしれません。どこかに純粋な部分が残っていたのでしょうか。
大学でも剣道部に入部したので、剣道漬けの毎日で、またしても勉強しなくなりました。おかげで試験はいつもギリギリの点数でしたが留年はしませんでした。
医師になって大阪大学の整形外科に入ってからは勉強が面白くなり、英語の論文をたくさん読むようになりました。良い整形外科医になりたいと努力を続けているうちに気づけば阪大の助教授になっていました。
平成12年に徳島大学の整形外科の教授が定年退職され、次の教授選の公募がありました。「教授選に書類だけ出してみないか」と言われて、出すとほぼ満票で当選することが出来ました。
徳島大学に戻ってきてさっそく剣道部長に就任したのは先ほど述べたとおりです。振り返ると私の人生の至る所に剣道が深く関わっていて、大きな影響を受けたことになります。
学会や講演会で参加者から「どうすればうまく骨を切ることができますか」と聞かれることがあります。その時は冗談で、剣道の要領で「エイ」と切る仕草をしてみせます。これをやると会場は盛り上がりますね。もちろん剣道と手術は別ですが。