医師と二人三脚で歩んだゴルフ人生

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九州プロゴルフ研修会 会長&公益社団法人日本プロゴルフ協会 理事
藤池 昇龍(のぼる)

ふじいけ のぼる
福岡県出身。1953 年8月24 日生まれ。飯塚商高から大洋ホエールズに指名され、1972年に入団。引退後、1978 年にゴルファーに転向。現在、九州プロゴルフ研修会会長。指導者としての手腕も高く評価されている。

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インタビューは藤池プロが第15 回TVQ シニアオープンゴルフで優勝した思い出の地、久山カントリークラブで行なわれた。数々の病気や怪我を乗り越え、今もシニアプロとして一線で活躍し、九州プロゴルフ研修会の会長を務める藤池プロにお話しを伺った。

―藤池さんはプロ野球の大洋ホエールズ(現DeNA ベイスターズ)入団後、3年で現役引退。その後プロゴルファーに転向しました。

 飯塚商業高校時代は捕手をしていました。当時から膝の状態があまり良くなく、一塁を守ることもありました。

 卒業後は東京六大学で野球がしたいと思い、早稲田大学と明治大学のセレクションを受けました。

明治に受かりましたが、大洋ホエールズからドラフト指名を受けました。

 両親からはプロ入りを反対されましたが、小さいころからの夢だったこともあり、反対を押し切って入団しました。

 一人っ子だったので、親は大学に行ってほしかったようです。

 捕手で指名を受けましたが、膝の状態が悪く、一年後に移籍した日拓フライヤーズ(現北海道日本ハム)では俊足をいかして外野手で出場していましたが、プロ入り3年目に右膝半月板を故障しました。手術してカムバックする道もありましたが、高いプロの壁を感じていて、そのまま現役引退を決意しました。

 プロ野球選手時代からゴルフをしていて、自信があったので、引退後はプロゴルファーになりたいと思い、PGA( 日本プロゴルフ協会)に任意引退選手もプロテストを受ける資格があるかを問い合わせると問題がないと言われたので、テストを受け、プロゴファーになりました。

―お医者さんとは切っても切れない仲だそうですね。

 そうなんです。32歳のときに網膜剥離にかかり、50日くらい入院しました。今でも左目の視力はほとんどありません。その後、喉の手術も3回ほどしました。3年前には脳梗塞、一昨年、昨年と2年続けて心臓の大手術も受けました。

 病気と闘う気持ちは常に持っていました。もう少しゴルフをやりたい、試合に出たいとの一心で頑張りました。病気に打ち勝つには気持ちの持ち方も大事だと思います。

 病院の先生にはお世話になりました。色々な人からいいお医者さんを紹介していただき、これまでのすべての治療がうまくいっているので感謝しています。

―スポーツ選手には早熟型と大器晩成型がいますが、藤池さんはどちらですか。

 大器晩成型です。若い時、うまくいかなかったですし、そう思わないと日々の努力を怠ってしまいます。常に先の試合を見すえ、練習しないといけません。試合1か月前くらいから練習するのはプロではありません。

 目標が無いと一日一日を大事に出来ません。一流のゴルファーほど高い目標を設定し、日々努力をしています。

 昔は漫画しか読みませんでしたが、今はいろいろな本を読んでいます。飛行機の中でも哲学の本を読みます。ある本に「人生は修業の場である」という一節があり、その言葉が私の心の支えとなりました。

―プロスポーツの中でも、特にゴルフの世界は厳しいですね。

 ゴルフに限らず、医師や新聞記者など、他の職業に就いている人全員が同じプロですから、どの世界にも苦労はあると思います。ただ私が恵まれているのは、好きなことを仕事に出来たことです。

 好きなことを仕事にしている人はそんなに多くないと思いますので、幸せな人間だと感じていますし、仕事が苦労だとは思ったことはありません。

 しかし病気で入院していた時は、本当につらかったです。50日入院し、半年ゴルフが出来なかった時は精神的に追い詰められました。

― 25歳でプロになり、30歳の時に日本ツアーの九州オープンで優勝しましたが、どんな気持ちでしたか。

 プロになってからアジアサーキットに出場していました。借金をして5年くらい各地をまわりました。

 5年目にシード権をとり、調子が上向いていることを感じていました。

 帰国してからは、山口オープンで優勝し、東急大分オープンでも優勝し、絶好調で迎えたのが、九州オープンでした。

 当時は鈴木規夫プロ、秋富由利夫プロなど強い選手が多かったですが、いい流れで試合を迎えられ、優勝できました。

―当時「飛ばし屋藤池」と有名だったそうですね。

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インタビュー前のラウンドでパターを打つ藤池プロ

 ジャンボ尾崎選手よりドライバーの飛距離が出て、順風満帆に行くと思っていた時期でしたね。

 九州オープンで優勝した翌年の神奈川オープンで初日トップでした。最終日にジャンボ尾崎さん、金子柱憲と最終組でまわりました。私は非常に調子が良かったのですが、尾崎さんはもっといいゴルフをして結果、2位に終わりました。尾崎さんからは「いいゴルフをしているし、今年の九州オープンも勝てそうだな」と声をかけられました。

 しかし、その後のKBCオーガスタでイップス病(精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーができなくなる運動障害)になり、パターの時にまったく手が動かなくなってしまいました。それが原因で33歳の時から長尺パターを使用しています。外国人が使っているのを見て使いたいと思ったのですが、当時、日本ではあまり売っておらず、アメリカに行った知人に頼み、買ってきてもらいました。

 長尺パターを使うようになって、ようやく手が動くようになりました。イップスにかかった当時、お医者さんに相談すると「右脳を使いなさい」とアドバイスをされました。

 右脳を使うには左手を使わなければならないので、それ以来、左手でご飯を食べたり、ひげをそったりして、普段の生活ではなるべく左手を使うように心がけています。

―今年、九州プロゴルフ研修会の会長に就任されました。

 最近の若いプロゴルファーは満足にあいさつができない選手が少なくありません。私はまず「あいさつができる人間になりなさい」と言っています。九州のプロからあいさつがしっかりとできる社会性のある選手を育て、ジュニアの選手の見本になるようにしていきたいと思っています。

 その点、女子は新人教育が徹底していて、PGAの役員が月に1回、問題点を話し合い、組織全体で人間教育に取り組んでいるそうです。

 私がプロになった当時は、先輩プロに弟子入りをしている選手が多く、師匠の靴を磨く、クラブを磨く、ボールを洗う、車を洗うなどをしながら、礼儀を教わっていました。

 今はジュニアからそのままプロになる選手がほとんどなので、師匠、先輩から礼儀作法を教わる機会が少ないのも一つの要因だと考えています。

 もう一つ気になるのは試合に負けた選手があまり悔しそうではないことです。私はいつも「負けたんだから、もっと悔しがれ」と言っています。

勝利への執着心を強く持ってほしいと願っています。

―ゴルフのすそ野を広げる意味でジュニアの育成は大事ですね。

 ジュニアは他の人間が指導をしています。子供が好きじゃないとできませんので、私には無理ですね(笑)

 今後は親御さんを交えた講習会をもっと積極的に行なうことを検討しています。子どもに過度の期待をかけて、成績が悪いと殴ったり、激しく叱ったりする人も中にはいます。子どもの教育とともに親の教育もしていかなければなりません。

 私はプロ野球、プロゴルファーの経験を通じていろいろなことを学びました。技術、人生感などを後進に伝えていくことが使命だと思っています。ジュニアの指導に限らず、心がけているのは「この人を上手にしてやりたい」と心から思う事です。その思いは相手に通じると思っています。

 現在、日本のプロゴルファーは、ツアープロ、ティーチングプロ合わせて5000人以上いますが、その中で、試合に出ているのは、100人ほどです。それ以外の人たちは、ほとんどが、ゴルフ場、レッスン場に所属してアマチュアのレッスンを通じて生活の糧を得ています。目先の利益だけを考えるのではなく、日本のゴルフ界のため将来、世界で勝てるプロを作るんだという気概を持ってレッスンに臨んでほしいと思っています。

―ドクターにはゴルフが好きな人が多いですね。

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 私の主治医は運動音痴で、ゴルフもしたことがない人だったのですが、私の勧めで52歳からゴルフを始めました。その先生に言ったのは「ゴルフは体をひねるので、血液の循環も良くなり、コースに出れば自然に囲まれて、遠くを見るので、目にもいい、歩くことで運動不足解消にもなります」と言いました。最近、その先生から「ゴルフは健康増進にとても役立ちますね」と言ってもらえました。

 50代、60代になると野球など激しいスポーツはできませんが、ゴルフならできます。高齢化社会ですが、ゴルフは健康増進につながりますので、気軽に楽しんでゴルフをしてもらえたらうれしいですね。その手助けをプロゴルファーがしていけたらと思っています。

―月いちゴルファーへのアドバイスを。

 久しぶりにゴルフをすると、うまくボールに当たるだろうかとプレッシャーがかかります。ボールを意識するのではなく、右サイドをまわすことを意識することで、うまくボールは飛んでいきます。当てることを意識しすぎると左手が反応してしまいます。とにかく右サイドをしっかりとまわすことが重要です。あとは膝の角度も重要です。この2つだけを意識してください。頭を残すことは考えなくてもいいです。

 もう一つは一日3回でもいいので、素振りをしてください。どんなに忙しくても1日3回なら無理なく続けられると思います。

 清原や落合など流し打ちがうまいバッターはゴルフは上手になりません。巨人の原監督のような引っ張り専門のバッターはうまくなりますね。アウトコースの低めの球を左中間やレフトスタンドに打つイメージでスイングをするといいと思います。インコースをライト方向に打つイメージだとシャンクします。

―スコア60と当時の日本記録を持っていました。

 1998年の三菱ギャラントーナメント(土佐CC)初日に60を出しました。2000年に倉本昌弘選手が59を出し、抜かれましたが海外から来たシニアの選手に「ミスター、シックスティ」と呼ばれていたものです。練習でも出したことがないスコアだったのでビックリしましたが、アドレナリンが出ているのか練習より試合の方がうまくいくことが多いですね。

―藤池さんがプロ野球にいた当時、個性的な選手が多かったそうですね。

 オールスター戦でバッティングキャッチャーを務めて、加藤初選手(元西鉄、巨人)、鈴木啓示選手(元近鉄)の球を捕りましたが、この二人は別次元でした。松岡弘(元ヤクルト)のストレートも速かったですね。新浦壽夫選手(元巨人、大洋他)のカーブは二階から落ちてくるくらいの落差があって、かすりもしませんでした。一軍の選手はどうやってあんな球を打っているのだろうと思ったものです。

 バッターでは張本勲選手(元東映、日拓、巨人他)が印象に残っています。バッティング練習の時、自分が予告した場所に必ず打ち分けていました。張本さんはとても優しい先輩で、たいへん可愛がってもらい、愛用のバットをもらったこともあります。しかしあの人のバットは非常に特殊な形状で、使いにくかったのを憶えています(笑)。

 昔は野性味がある選手が多く、野球が面白かったですね。選手はエゴむき出しで、同ポジションのライバルがエラーでもしようものなら大喜びでした。チームメート全員がライバルで強いチームほどその傾向は強かったですね。

 今の選手たちは、いい意味でも悪い意味でも仲良しで、私から見ると小さくまとまっているように見えます。

 昔のゴルフクラブはパーシモンで、ボールがつかまえづらく、選手の個性が出ていました。

 ゴルフ界で今、個性のあるスイングをして、観ていて面白いのは横峯さくらですね。タイガーウッズが横峯のスイングを見て「あれでボールに当たるのか」と言ったそうです(笑)。


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