社会医療法人栄光会 栄光病院 理事長/名誉ホスピス長 下稲葉 康之
下稲葉理事長は、三つの視点で患者に向きあっていると感じた。医師の目、キリスト教徒として命を見つめる目、生き切った人に向ける後輩の目。最近は地域に目を広げ、糟屋郡志免町の町内会や志免西小学校、志免町社会福祉協議会、医療介護事業者などと「志免西・地域恊働ネットワーク」を作り、事務局を院内に置いて、地域コミュニティの活性化にも取り組み始めた。
1957 鹿児島ラ・サール高校卒、1958 ドイツ人宣教師と出会い、クリスチャンとなる。1963九州大学医学部を卒業し国立福岡中央病院でインターン、1964 九大医学部第二内科入局、1965 西独ボン大学留学。1967 医療法人古森病院に勤務。香住丘キリスト福音教会を創設し伝道者としても奉仕。1980 福岡県粕屋郡志免町・亀山病院に勤務しホスピスを担当、1986 年福岡亀山栄光病院として新築オープン、副院長・ホスピス長。1990「緩和ケア病棟を有する病院」として厚生省認可、1999 特別医療法人栄光会栄光病院の認可を受け、副理事長・ホスピス長に就任。2005 栄光病院院長兼務、2008 特別医療法人栄光会理事長。2008 特別医療法人栄光会栄光病院ホスピス主監。2009 福岡県の認定により「社会医療法人」となり現在に至る。
―福岡地区に大きなネットワークを作っていますね。
「ホスピス緩和ケアネットワーク福岡」の登録施設は76。事務局がここにあり、私が代表幹事を務めています。
幹事会やネットワークの研修会などは、おもに当院の礼拝堂を使い、拠点として利用してもらっています。
―治療の終りと死の狭間について話してください。
私たちは30年くらい前、まだホスピスの制度がないうちから、末期がんの人に接してきました。
「末期がん」という言葉を今の医師は不用意に使っています。患者や家族からすれば、仮に治療はもうありませんと言われても、その状況の下で生きていかなければなりません。そしてその期間は、とても貴重なものです。
医療の限界と同時に、「治療ができなければ延命」だけが医療の役割なのかということです。
そうではないんじゃないか。広く言えば「死を含む医療」です。そのような考えを持ってホスピスにとりかかることになりました。
これまで、7千数百人の方をホスピス病棟で看取って来てるんですよ。それを振り返ってみる時、ホスピスというのは、病気を対象とするより、その人の人生そのものに関わり、その人の命の質に関わる、そして、その人と家族を1つの単位として関わることになります。
たとえば患者さんが男性なら、しばしば夫であり、父でもあるわけで、妻は夫を失い、子供は父親を亡くすんです。その両者に関わる中で、患者さんや家族の皆さんと交わした言葉は、なんとも言いようのないものがありました。
私も同じ人間ですから限界があり、出来ないこと、分からないことのほうが多いです。それでも、なるべく相手を受けとめるように努めて、小さなしあわせを一つでも二つでも見つけられたらいいですねと、今日の回診でも話してきたところです。
―医療者としてだけでは踏み込めない世界ですね。
ホスピスというのは、「全人的に患者さんの痛みを理解し、その理解に基づいてなされる全人的なケア」です。私は医学部の二年生の時にクリスチャンになりました。そのことが今の私のホスピスケアに大いに反映しています。
患者さんが「死」という言葉を使って質問してこられる。それを受けとめるのは、医者としての立場じゃないんですよね。
その時の、受けとめようとする私のスタンスは、一人の人間として聴く。そして一人のクリスチャンとして聴くことになります。
ここに来られる人の多くが精神的にも疲れています。だからこちらの問いかけに素直にうなずかれます。じゃあ、うなずかれたあと、どう対応するかになると、これはもう、医者としての知識とか技術とか経験では、対応できるレベルが違う。
私も、いずれこの世を去る一人の人間として話を聞き、共感し、求められればクリスチャンとして会話し、賛美歌を歌わせていただきます。
死という言葉は、病棟の患者さんにとって現実なんです。それを言葉でなぐさめようとしても、これもまたレベルが違います。患者さんに迫っている死という現実のレベルに向きあって、何らかのお手伝いができることは、ものすごく重たい、そしてとても貴重なことだと思っていますね。
―現場はとてもきびしいのではないですか。
たしかに状況は厳しく、内容は深刻です。それだけで対応すれば、燃え尽き症候群みたいになります。
ではなぜ30年以上も関わって来られたかというと、私自身が癒されてきた、ということです。
癒しをどう提供するかという話はよくあります。でもそれだけでは、こちら側がつぶれるんですよ。でもそうじゃなく、あり余るくらいに癒されてきました。私がこれまで生きてきたのは、この患者さんに出会うためだったのだと思えるようなことが何度もありました。
―医療者がそのような心境に立てる入口は。
ホスピスに関わって1年半くらいの時に、60代半ばの患者さんと話していて、ふと思ったんです。
自分は癌になったことがなく、抗がん剤の苦しみも知らない、そして、もう治療がないと主治医に言われた経験もない。でもいま目の前にいる患者さんはそれをすべて経験しておられる。医療に関しては素人かもしれないが、人生の経験としては、たとえ私よりずっと若くても先輩だということに気づいたんです。いずれ私も一人の人間として、先輩のあとに続くんです。
後輩が先輩と肩を並べるとか理解するとかは不可能に近い。
私たちといっしょに働いていたホスピス病棟のスタッフが癌になり、治療の末にこう言いました。「癌になってみて、初めて分かることが、あまりにも多すぎます」。
私が何千人、何万人に関わっても、医者である限り患者さんの後輩です。だから先輩のために、ぎりぎりのところまで力になってあげたい。そしていずれ、私にも先輩の気持ちがわかる時が来るでしょう。
―冒頭のネットワークについて説明してください。
2025年ごろをピークに、超高齢社会、多死社会が到来します。それを見越して、病院から在宅へ、医療から介護へという流れになっていきます。
私たちは何年も前から、介護施設も看取りの場になるだろうと予測していました。しかし実情として、介護施設で看取るためにはクリアしなければならない課題もあります。在宅医や我々のような病院や、24時間体制の訪問看護ステーションが介護施設とチームを作った時に初めて、在宅と同じような機能になる。そこで「ホスピス緩和ケアネットワーク福岡」を作ったんです。現在76施設が参加しています。(下に一覧表)
年に4回ほど研修会を開き、多職種の交流などもやっていますが、いちばん真剣なのは介護施設のスタッフですね。そのなかで介護施設でのサービスのシステムが向上し、看取りも増えています。
多職種による多重層的なネットワークに介護施設が入っているケースは、ちょっと珍しいかも知れません
地域の一員として足並みそろえ
―医療と生活で、これから何が大切になりますか。
自分たちの地域は自分たちで守るという住民の決意じゃないでしょうか。コミュニティはそれぞれ問題を抱えていますが、そこに目覚めなければ悲惨な状況が予測されます。それで当院も意を決して、地域活動に参画することにしたんです。
月に1度の会合をくり返す中で、地域からの要望に応えて健康教室を開催するなど、顔の見える連携が出来つつあり、いろんな可能性が見えています。ホスピスの仕事をしながら、地域にも種を蒔いていきたいと思っています。
ホスピス緩和ケアネットワーク福岡の役員
- 【代表幹事】下稲葉康之/社会医療法人栄光会栄光病院【副代表幹事】二ノ坂保喜/医療法人にのさかクリニック
- 原口勝/社会医療法人喜悦会那珂川病院【幹事】=伊藤新一郎/医療法人あおばクリニック
- 清水大一郎/清水クリニック
- 平田済/福岡医療団たたらリハビリテーション病院
- 山下和海/特定医療法人原土井病院
- 吉田晋/社会医療法人栄光会栄光病院
- 佐藤栄一/社会福祉法人白熊会特別養護老人ホーム白熊園
- 司城博志/医療法人財団華林会村上華林堂病院。
ネットワーク登録施設
[クリニック、診療所]
- 薬院内科循環器クリニック=中央区
- たけとみクリニック=同
- むらおかホームクリニック=南区
- 小さな診療所=博多区
- 千代診療所=同
- 原外科医院=糟屋郡
- 亀山クリニック=同
- あらきホームクリニック=同
- 栄光会クリニック博多の森=同
- あおばクリニック=東区
- 山口内科医院=早良区
- すこやかクリニック=同
- にのさかクリニック=同
- 清水クリニック=南区
- ひのでクリニック=同
- 山茶花在宅クリニック=同
- 岡村内科クリニック=西区
- さくらのクリニック=糸島市。
[ホスピス・緩和ケア病棟]
- 及川病院=中央区
- 秋本病院=同
- 栄光病院=糟屋郡
- 木村病院=博多区
- 友田病院=同
- たたらリハビリテーション病院=東区
- 原土井病院=同
- さくら病院=城南区
- 那珂川病院=南区
- 原病院=同
- 井上病院=糸島市
- 糸島医師会病院=前原市
- 西福岡病院=西区
- 村上華林堂病院=同。
[訪問看護ステーション]
- 博愛訪問看護ステーションささおか=中央区
- 栄光会訪問看護ステーション=糟屋郡
- 桜十字福岡病院訪問看護ステーション=中央区
- 原三信病院訪問看護ステーションおおはま=博多区
- 訪問看護ステーションわかば=同
- 訪問看護ステーションたんぽぽ=東区
- 訪問看護ステーションそよかぜ=同
- 訪問看護ステーション