医療事故と法律(6)
いかなる医療事故を刑事罰の対象とするかは、その事故による被害の大きさや、その被害防止の難易度などのバランスによって決められるべきことだと思います。
例えば、本来投与すべきでない薬を投与して患者に湿疹ができたというのも事故といえば事故です。投与すべきでない薬であったとすれば、医師の過失もあるでしょう。しかしそれによって起こった被害が投与であり、その薬を止めれば治るといった程度のものだとしたら、その事故を業務上過失傷害として処罰の対象にすべきだと考える人はいないのではないでしょうか。一方、投与すべきでない薬を投与したために患者が死亡したとしたら、被害は甚大です。しかし、投与すべきでない薬だったといっても、その判断に高度な医学的知識が必要である場合もあります。遺族の被害感情は大きいでしょうが、だからといって、これを処罰しようという社会的な判断にはならないと思います。
しかし、明らかに投与すべきではない薬を投与して患者を死亡させてしまった場合には、どうしても刑事責任が問題にならざるを得ません。この連載でも何度か触れた都立広尾病院事件は、患者さんの点滴に消毒薬入りの注射器を繋いでしまったという事件でした。また、埼玉医大では、週1回投与すべき抗がん剤のプロトコルを誤読し、7日間連続で投与して患者を死亡させてしまったという事件が起こっています。
ただし、私は、このような単純ミスによる重大な医療事故の場合には、それに携わった医療従事者を処罰しなければならないと主張しているわけではありません。医療事故に対して刑事処罰を以て臨むことの弊害については、前号に書いたとおりです。刑事処罰を与えるにあたっては、その単純ミスが起こった経過や背景事情など、様々な要素を総合的に考慮して、本当に処罰やむなしかどうかを慎重に判断する必要があります。
日本の社会で、このような判断が的確になされてきたかというと、そうではないように思います。なにより、それを的確に行おうという制度的な取り組みが欠けていました。「刑事医療過誤Ⅱ」(判例タイムズ社)によれば、著者が戦後から1999年1月までの間に収集し得た刑事医療過誤事件は137件でした。それが1999年以降2004年4月までの間に79件112名と激増しています。
1999年1月というのは、横浜市立大学医学部附属病院で患者取り違え事故が起こった月であり、都立広尾病院事件はその翌月のことでした。広尾病院事件以降、医師法21条による異状死届出が増加したこともありますが、それと同時に、医療事故に対して集まった社会の注目が、捜査当局の背中を圧していたのだと思います。
では、いま現在はどうか。私は正確な数字を持ちませんが、おそらく2006年2月の福島県立大野病院事件による医師逮捕に対する医療界の批判、そして2008年8月の無罪判決を経て、刑事処罰はかなり減少していると思われます。
これはおそらく、刑事処罰に値するような事案の増減ではなく、どのような事件が刑事処罰に値するのかという価値判断が揺れ動いていることを示しています。
この価値判断の不安定こそが問題ではないか、と私は思うのです。