【特別寄稿】 変身

  • はてなブックマークに追加
  • Google Bookmarks に追加
  • Yahoo!ブックマークに登録
  • del.icio.us に登録
  • ライブドアクリップに追加
  • RSS
  • この記事についてTwitterでつぶやく

中津市立中津市民病院 院長 池田 正仁

96.jpg

池田正仁(いけだ・まさひと)昭和49年山口大学卒。昭和50年九州大学医学部第二外科に入局。平成6年厚生省海外派遣制度にてニューヨークベス・イスラエル病院で内視鏡学の研修。平成22年中津市立中津市民病院院長に就任、現在に至る。日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、日本胸部外科学会指導医、日本大腸肛門病学会指導医、日本消化器病学会指導医、日本消化器内視鏡学会指導医、麻酔科標榜医、日本臨床外科学会評議員、日本内視鏡外科学会評議員、日本ヘルニア学会評議員、医学博士。

 医師になってまもなく40年になろうとしている。中国四国医事新報が発刊されたこの機会に、母校・山口大学での遠い昔の日々を追憶してみた。

 東京大学、日本大学等をはじめとする大学紛争が、次第に全国に波及し、過激化していた、1968年に私は大学に入学した。大学と学生は対立するのが当然という風潮が蔓延していた時代であった。

 それにしても、大学紛争の頃は思い出すにつけブチ(※1)不思議な時代であったと思う。大学に入学して最初の2年間(医学進学過程)は、激しい大学紛争のため、まともに授業を受けた記憶がない。クラスの中も考え方(思想・信条とまでは言えない)により幾つかのグループに分かれてしまった。大学構内には、闘争時でなくても覆面に

ヘルメットの学生がゲバ棒を持ってあちこちにいる。異常な光景である。教員が授業をしようとすれば暴力をもって阻止する。バリケードを張って一般学生の構内への進入を妨害する。大学の正門には大きな立て看板が幾つも並ぶ。全学無期限スト突入や団交要求決起集会、国大協路線粉砕、造反有理などと赤いペンキで荒々しく書かれていたのを思い出す。私は大学の数学や物理の授業を楽しみにしていたので残念な日々であった。

 そして、一番迷惑したのは学生運動家が数名で下宿に押しかけて来ることであった。暴力的ではなかったが、時間はお構いなしで、話は一方的であった。手には「都市の論理」(羽仁五郎著)などお決まりの本を持っていた。オルグと称してやって来るのである。「北爆でベトナム人が毎日大勢死んでいるのに、君はここでドイツ語のテキストなど読んでいていいのか」的な発言を大きな声で延々とまくしたてるのだ。暫くして、一々反論すると中々帰ってくれないのに気づいた。それからは納得できない話でも言いたいことは言わせて、黙って聞くだけにした。

 ある晩、見慣れない3名がまたまたオルグにやってきた。バリケード封鎖の正当性や大学の自治について滔々と声荒く言い放って帰りかけた。やれやれ、やっと帰ってくれるかと思ったその時、そのうちの一人が私に強い口調でこう訊いた。「カフカの『変身』は読んだか」と。カフカも変身も知らなかったので、「いいえ」と答えた。「カフカの『変身』も読まんでどうするんだ」と怒鳴って出て行った。

 いつもは彼らが帰った後には不快感だけが残るのであるが、この日は何となく違った。それまで知らなかった作家とその作品の一つを教えてもらったからである。早速書店で同書を探し、文庫本の「変身」(高橋義孝訳)を入手した。一気に読み終えた。それは、ある朝、気がかりな夢から目をさますと、自分が一匹の巨大な虫に変わっているのを発見する男(グレーゴル・ザムザ)とその家族(両親と妹)のその後の顛末を描く物語であった。衝撃的な書き出しで読み手の自分が虫になったような錯覚に陥り、早く元の姿に戻りたいという気持ちがページを捲らせたように記憶している。何度も読み返したが、彼らの学生運動家としての反体制的行動と直接結びつく内容とは到底思えなかった。その後、10年、20年と年齢を重ねてからも数回読んだが、読後感想に大きな変化はなかった。そして、それからはカフカの「変身」を読むことはなかった。

 私は平成21年の9月、チェコのプラハにいた。国際学会でライフワークの研究成果を発表するためであった。発表が終わると待望の観光が待っていた。先ず、ヴルタヴァ川に架かるプラハ最古の石橋カレル橋を渡りプラハ城を訪ねた。国立博物館、ムハ美術館、ドヴォルザーク博物館、スメタナ博物館、旧市庁舎などを数日かけて観光してまわった。オプショナルツアーでヴルタヴァ川ディナークルーズを楽しんだ。また、街の小さな博物館では、「プラハの春」から「ビロード革命」に至るまでの民主化運動の経緯がビデオで繰り返し上映されていた。全国的なデモのきっかけとなった警察隊の学生デモに対する弾圧の様子がとくに強調されていた。負傷した学生のインタビュー映像は痛々しく、暴力への怒りが込み上げてきた。この博物館を出ると、そろそろ帰国のことも気になりだしてきた。

 ビロード革命の映像を見て、中身は全くと言っていいほど異質なものであったが、なぜか大学紛争の頃の出来事が胸の内に去来していた。そして、カフカのことが急に頭に浮かんできた。そうだ、カフカはチェコ生まれだった。早速、調べてみるとプラハにカフカ博物館があることが分かった。タイトな時間の中、カフカに会いに行った。なぜか嬉しかった。プラハを完全に制覇した気分になるとともに、日本がやたら恋しくなってきた。あと一日で帰国の途に就く予定であった。

 ここでまた欲が出てカフカの「変身」の原著を入手したくなった。

 プラハ市内の書店を片っ端から探し、Kafka とmetamorphosis、transformationの3つの単語と"朝起きたら虫に成っていた" という説明で本を求め続けた。どこにもなかった。

 諦めてホテルに戻った。そして、帰国のためプラハ国際空港に向かった。空港内の書店で何気なく本棚を眺めていると、Franz Kafka が目に飛び込んできた。表題は「Die Verwandlung」と書かれていた。早速買い求め店の方に尋ねてみた。「この本を読んだことがありますか」「読んだことはありません」と彼は答えた。意外な感じもしたが、日本人も自国の有名な文学作品を全て読んでいるかといえばそうではないので、こんなものかと思った。本を大切にバッグにしまい、機内に乗り込んだ。

 カフカの「変身」は、疎外された人間の孤独と、疎外する側の冷酷さを、恐ろしいほど的確に描いた物語である。また、彼が「城」で描いた巨大でありながら無意味な部署ばかりの官僚機構の世界。「審判」で描いた不条理この上ない裁判所の不気味さ。これらが、1950年代以降に世界的な反体制運動を巻き起こすことになる学生たちの思想にも大きな影響を与えたと言われている。ここで初めて45年前、私に「カフカの『変身』は読んだか」とシロシイ(※2)声を張り上げた学生運動家とカフカの「変身」が繋がったのである。チェコスロバキア社会主義共和国(当時)で勃発した、共産党支配を倒した民主化革命における学生運動と、私の学生時代に繰り広げられていた学生運動は、同じ反体制活動でも全く正反対のものではあるが。

 カフカの「変身」からは、日常の非連続性を教えられたと思う。朝、目を覚ました時、この小説のような虫(あくまでも比喩で弱者・被疎外者の意)になっていないという保証は誰にもない。場合によっては、毎日少しずつ虫になっていっているのかもしれない。この虫を元の人の姿に戻すために最善・最大の努力をするのが私たちの役目である。強い使命感をもって毎日の医業に精励し、全ての病める人を笑顔の健者に"変身" させたいと思う。遠い昔、「カフカの『変身』は読んだか」と激しい口調で私に訊いた学生運動家は今、どう変身しているであろうか。(平成25年10月4日脱稿)

※1=とても ※2=うるさい(※1、※2ともに山口弁)


九州医事新報社ではライター(編集職)を募集しています

九州初の地下鉄駅直結タワー|Brillia Tower西新 来場予約受付中

九州医事新報社ブログ

読者アンケートにご協力ください

バングラデシュに看護学校を建てるプロジェクト

人体にも環境にも優しい天然素材で作られた枕で快適な眠りを。100%天然素材のラテックス枕NEMCA

暮らし継がれる家|三井ホーム

一般社団法人メディワーククリエイト

日本赤十字社

全国骨髄バンク推進連絡協議会

今月の1冊

編集担当者が毎月オススメの書籍を紹介していくコーナーです。

【今月の1冊, 今月の一冊】
イメージ:今月の1冊 - 88. AI vs. 教科書が読めない 子どもたち

Twitter


ページ上部へ戻る