下関市立済生会豊浦病院 院長 上領頼啓
昭和19年に設立された広島陸軍第一病院小串転地結核療養所は翌20年、厚生省に移管され、名称を国立山口病院と改めた。以来、国立山口病院は豊浦地域の医療の中心的役割を担うことになる。ところが平成8年、国立病院整備計画の一環として、国立下関病院と統合し閉院する案が出された。住民の激しい反対運動により統合は取り止め、国立山口病院は豊浦町立となった。以後、五年毎の更新を条件に、済生会がその指定管理者を引き受ける。現在は豊浦町が下関と合併したため、下関市立済生会豊浦病院となった。響灘に面しており、林立する松の巨木が、療養所時代の名残を感じさせる。
―建て替えを検討されているそうですね。
ここは古い病院です。昭和39年に建てた建物が残っていて、病棟内に雨が漏るところもあり、来た当初は愕然としました。昭和40年代から50年代に建てられた部分ばかりで、老朽化が著しく、増築の繰り返しで病棟間をストレッチャーが移動できないなど不便も多くあります。
当院には高齢患者が多いのですが、階段は蹴上げが高く、バリアフリー化もされていません。狭い廊下に待合室代わりの椅子があり、車椅子やストレッチャーの交差が困難な状況です。
狭いだけではなく、設計思想が時代遅れです。
長い移動距離は職務遂行上非効率だし、付帯設備も古く、配管は複雑でむき出しです。夏場の調理場は、34・5度にまで達し、熱中症で倒れて入院する者も出たくらいですから、患者さんにとっても職員にとっても、良い環境ではありません。
しかし建物自体は市の物ですから、簡単には建て替えが出来ません。だから今は建て替えを市に訴えているところですが、下関市立の病院は3つあり、ここは市街から離れていることと、直営ではないこともあって難しいのが現実です。
以前は町に唯一の病院として、豊浦町から熱意ある支援をしていただいていましたが、今は下関自体が広い町であることもあって、なかなか当院に目が届かないようです。
(「病院がなくなるということになった時、このあたりには筵旗が立ちました。しかし公務員では運営出来ないと豊浦町は判断し、いろいろな機関にお願いしては断られ、困っていたところを済生会が受けてくれたという経緯があります。もし赤字が出れば、豊浦町が補填するという約束でした。21年以来黒字に転換しています。市からの支援もありますが、大きな要因は済生会職員の自助努力です」と、元は豊浦町の職員だった中村事務長は話す。町立病院になった時は、町の財政担当だったそうだ)
この病院で利益を出すのは簡単ではありません。しかし我々がやらねば、この地域3万5千人の医療は誰が守るのでしょう。本来なら当院は、市が職員を出し、医師も自前で集めて運営すべきですが、病院経営のノウハウがなければ老人病院にせざるを得ず、赤字を抱えることになるでしょう。五年ごとに指定管理が更新されますが、他にやりたい人は当然いません。仮にいても、救急をやれるかは疑問です。我々がやるしかありません。
今は市議にもお願いをして、建て替えを訴えています。
多くの人に必要性を理解していただくために、さまざまな方法で説得に取り組んでいます。
―昨年、山口大学医学部附属病院の協力型臨床研修病院になったそうですね。
協力型で来る先生に限らず、若い人が来ないと病院は活性化しません。若い人が来れば中堅が奮起します。若い人の疑問や質問が、「しっかりしなきゃならん」と、中堅を自覚させます。病院全体が生き生きしてくるから望ましい。
しかし若い人を呼ぶというのは大変な苦労です。医師不足で症例数が少ないにもかかわらず、症例数が少ないということを理由に人が来ない。悪循環です。医師の偏在が県の中にもあり、豊浦や、萩、長門といった北浦に、若い人は来たがりません。県も困っていますが、費用は出さないので改善はされていません。医者集めは私にとって、建て替えに次ぐ大きな仕事です。