社会医療法人財団 天心堂理事長 松本 文六
■1991 ~労働者住民医療機関連絡会議副議長■1998 ~ 2007 大分県老人保健施設協会会長■2006 ~日本病院会理事■2007 ~地域医療研究会代表世話人
JR大分駅から各駅停車で4つ下った中判田駅で降りた。
天心堂へつぎ病院までおよそ1㎞。戸次と書いて「へつぎ」と読む。強い風に背中を押されて大野川に架かる白滝橋を渡る。しばらく歩くと、地元の人たちが「天心堂」と呼ぶ病院が遠くに見えてきた。松本理事長の言う「病院らしくない病院」である。なるほど、大きな看板がなければ美術館にも倉庫にも見える。
国道からわざと脇道に入って農道を迂回し、田んぼをはさんで全景を観た。そのあと道に迷い、緑の木々が織りなすトンネルを通り抜けたところが、天心堂の裏にある職員専用駐車場。救急車が横付けされていた。
養蚕で繁栄した土地。でも駅がこなかった。
明治時代の戸次は養蚕が盛んで、呉服屋も4軒あり、大分の方からいろいろ買い出しにくるような土地柄だったようです。でもここを鉄道が通る際、帆足家という大きな庄屋が、桑の葉に煤煙が付くからと反対運動を起こして、それで川向こうに中判田駅ができたんです。何十年か前には農業振興地域に指定されて住宅も乱立しなかったし、自然が残ったという点で、このあたりは気分的には悪くないです。私の小さいころは盆踊りに方々から人が集まるくらいにぎやかだったんですが。
天心堂の名前は医寮の心にかなっている。
当院の名誉院長が私たち若い医師に、「きみらはどうせ勉強していないだろうから、名前だけでも負けないのをつけてやろう」と言って付けた名前です。漢方の匂いがするなと思っていたんですが、天の中心で、太陽は平等に照らすから、患者を属性で差別しないという意味では医療の心にかなっているんです。
患者の要望にずっと合わせてやってきた。
国道沿いのへつぎ診療所がここの出発点です。当時は周辺に開業医がほとんどおらず、1日の外来患者が400人を超えました。医者は5人しかいないし看護師も燃えつき寸前で、3つある病棟の1つを4か月閉鎖するしかなくなり、看護師のために保育所を作ったり、患者を分散させるために、診療所をいくつか建てました。90年には老健施設も建てました。周辺の患者さんの要望に合わせざるを得なかったんです。
各地から見学に来た病院らしくない病院。
あるとき長方形の建物を見て、「病院ちゅうのは収容所やなあ、次は収容所を建てたくないなあ」と思ったんです。それでここを建てる時に「病院らしくない病院」をコンセプトにして建設会社を探したら、当時3人しか建築士のいなかった福岡の「木石舎」が、もっとも私どもの気持ちを理解してくれたんです。住宅設計が専門で、快適な住空間に詳しかったんですね。全国にも影響を与えたようで、病院の建て替えの時期とも相まって、雑誌にも載りましたし、見学者も各地から来ました。エポックメーキングになったかもしれません。
臨床研修医の正しい育て方
大分医科大学が臨床教授の肩書きをくれて、年1回の特別講義のほかに、うちで研修させるんですが、みんな建物に驚いていましたね。
臨床医の心得を書かせたり、脳死についてコメントさせたり、卒後臨床研修について考えさせたりする一方で、問診を取らせるんです。5分くらいでできるというからやらせてみたら、1時間半かかりました。
質を下げないために医師にも規制が必要。
医師の数さえ揃えればいいという考え方は、医療の質を落としますよ。そんなだから若い医師が一人前に育ちにくい。1人の医者を育てるのに億単位の税金を使うわけですよ。だから規制をかけてもいいと思うんです。臨床系の教授になりたければ無医地区か発展途上国に3年間赴任する、みたいなシステムがなければ教育が出来ないでしょう。専門医制度についても、疾病構造に見合った数に規制して、あとは総合医にしたほうがいい。
肋骨を折って入院した患者に胸部外科の教授が、「はい深呼吸して」ですから(笑)。教授回診が3回あって3回とも。胸部外科なのに肋骨骨折の病態を知らないんです。
これから重要になる患者のDNR確認
高齢社会ですから、状況のきびしいお年寄りが入院したら「事前指示書」を書いてもらい、DNRを確認するんですが、そこまでやる病院はまだ少ないようです。このことを地域の人たちに公民館で話したら、初めて聞きましたと目を丸くしていました。でもDNRはあなたも書いておいたほうがいいですね。