大宰府にあった筑紫歌壇というグループに、山上憶良という官吏がいた。
憶良は遣唐使の経歴を持ち、留学時代に聞いた名医の話を残している。これは万葉集巻五に収められ「華他は沛国譙郡の出身。体の中に重篤な病のある人がいれば、腸を切って病を取り、縫合して膏を塗れば、4~5日で癒えた」という内容だが、この華他という医師は後漢書巻八十二下方術列伝第七十二下に立伝された華陀のことである。
江戸末期を代表する浮世絵師、歌川国芳は「武者絵の国芳」と称されるが、代表作の一つに、碁を打ちながら右肘の矢傷を治療させる豪傑を画いた錦絵版画がある。
この豪傑の肘を切る医師の脇には「華佗」と書かれるが、これも華陀のことである。国芳は判じ絵で知られた作家であり、この絵にも隠された意味があると考えている人もいる。それは、この絵には何故か不自然に、多くの牡丹らしき花が画かれているからだ。疑って見るのも分からない話ではない。
牡丹ではなく芍薬かもしれないが、いずれにしてもボタン科に属する植物で、根には消炎鎮痛作用、茎皮は抗菌作用がある。事実、江戸時代には薬草として育てた記録がある。芍薬の名に薬の字があるのは、漢方薬であるからだ。国芳は当時すでに観賞用になっていた牡丹や芍薬が、医薬として用いられていたことを知っていたのかも知れない。そして華陀が用いたと予想したのだろう。
尚、余談であるが、この絵で豪傑の碁敵となっている人物は、「白眉」の語源で知られた馬良という人物である。高校の漢文の教科書には誤って「馬氏五常の長男」と書かれたものもあるが、実際は四男である。