5月1日に完成する「佐賀県医療センター好生館」の十時忠秀理事長に聞く
佐賀県立病院好生館は2006年から09年までの4年間、累計で約13億円の赤字を抱えていたが、2010年の独法化を期に十時忠秀理事長が就任して以降、毎年15億円前後の黒字に転じた。その秘訣と、5月1日に完成し移転する新病院「佐賀県医療センター好生館」(5月2日から救急外来、同7日から一般外来診療開始)への思いを聞いた。
【Profile】 十時忠秀(ととき ただひで)
1968 九州大学医学部卒
1980 医学博士(九州大学)
1982 佐賀医科大学麻酔科教授
2003 佐賀大学医学部附属病院病院長
2005 佐賀大学 副学長、医学部附属病院院長兼任などを経て現在に至る
【新病院の概要】
新病院の特長の一つに県内で唯一の免震構造がある。また病院棟3階屋上に太陽光発電パネルを設置するなど自然エネルギー活用で、九州で初めて国交省から「CO2先導事業」に選ばれた。
【所在地】佐賀市嘉瀬町大字中原 / 敷地面積 59,846.88 ㎡ / 駐車台数 約770 台
【病院棟】地上8階(一部9階) / 病床数450床 / 個室率35.1%
【主な診療施設】内視鏡室、放射線部(一般5室、透視5室、CT2室、MRI2室、血管造影3室)、リニアック1室、外来化学療法室20床、ICU8床、透析室20床、無菌病室10床、NICU3床、NICU 後方8床、MFICU3床、MFICU 後方6 床、分娩室2 室、感染症病室8室、緩和ケア病棟15床
【研修棟】地上6階 / 研修施設と宿舎(研修医およびゲスト用42戸)
【保育所棟】木造平屋建て / 定員30 名程度
最寄り駅はJR鍋島駅となる。
医者は職人なんです。働きやすい環境といい道具を与えたら、いくらでも働いてくれる。
2011年度の目標は「+(プラス)のスパイラルに」でした。全職員がコスト意識を持つように働きかけながら、メディカルスタッフを充実させ、必要な医療機器を購入しました。2012年には「三位一体の病院運営」としました。経営状況が良ければ職員が満足でき、患者が満足する治療に専念できます。だから出費を押さえながら、人材をいかに確保し、どう配置するかを重視しました。
その結果、人件費率が53.9%から45.7%に、材料費率30%が24.1%に、委託費率10.2%は6.1%に下がりました。
私は佐賀大学病院の院長だった5年半で、いい人の元にはいい人が集まることを知りました。人がもっとも大切だということが分かったのです。
医師や看護師、あるいは技師や事務職は、自分の職務には明るくても、情報の理解に差があります。そこで週に一回、館長、副館長、看護部長、事務部長、コ・メディカルの代表が理事長室に集まって統括責任者会議を開くようにしたら、部門のトップが決めたことですからすぐ実行されるようになりました。経営の改善にはそんな工夫もしたわけです。また、私は九州国際重粒子線がん治療センターの理事長もやっていますが、耳の痛い意見を言う部下がどちらにもいます。行動を決断する時には諌言してくれる人も必要です。
そして2013年の目標は「新しい皮袋に新しい酒を」です。更なる良質な医療を提供するために新病院を建てることになり、実現を目前にして、職員は一層やる気になっているようです。
法人化前の職員は700人でしたが、新病院では、300人増えて1千人になる 予定です。昔から、医師が減って経営が立ち行かなくなった病院は多いですが、多すぎてつぶれた病院はありません。今後も働きやすい職場作りを進めながら、医療機能を充実していきたい。
新病院を設計する際に、私のわがままを聞いてもらい、ステンドグラスを取り入れました。季節や時間帯で彩りが変わるので、病院を訪れた人や入院されている方に、少しでも安らいでほしいと思います。その一環として、開院式でバイオリニストの木野雅之さん(日フィルコンサートマスター)を招いてコンサートを開く予定です。
近々、佐賀県医療顧問の立場で、国の「医療を考える会」などに呼ばれているんです。好生館の話になるようですが、当院をモデルケースにしないでくれと伝えようと思います。金太郎あめみたいに、国は何でも標準化したがりますが、様々な出会いや人の縁に恵まれて今があるわけで、どこでもこうなるわけじゃないんです。その点で私は、いい師や先輩後輩に恵まれ、医療の面でも資金の面でもずいぶん助けてもらいました。
振り返ってみますと、私は幼少のころ、特に小学6年生くらいまで両親から深く愛された実感があります。寒い冬に父親と寝る時、冷えた私の足を父が自分の脚の間に入れてくれたり、母親がとても楽しそうにケーキを作ってくれたり、どの家庭にもある、ささやかで深い愛情のおかげで今の私があるのだと思います。
好生館と佐賀藩
現在の好生館はいずれ取り壊されて更地になる。 中庭の「鍋島閑叟公と種痘の像」はこのまま残し、好生館跡地のモニュメントとして保存したいと十時理事長は話す。
佐賀藩は幕末のころには、工業や医学に最先端の技術を取り入れていた。
1781年好生館の前身である藩校『弘道館』が設立され、教授となった古賀穀堂が1806年に著わした『学制管見』で医学教育の必要性を訴え、『学問ナクシテ名医ニナルハ覚束ナキ儀ナリ』と述べた。
1830年鍋島直正公が第10代藩主となって藩政改革に乗り出し、1834年医学館を創設、1849年全国に先駆けて種痘の実施、1851年には全国初の医師免許、佐賀藩医業免札制度の発足など、佐賀藩を時代の最先端へと導いた。
1858年医学館は医学寮と名を改め水ヶ江後に移転。鍋島直正公より『好生館』と命名された。中国の書経にある『好生の徳は民心にあまねし』から取られた言葉。
明治以降も好生館はその機能と理念を引き継ぎ、多くの外国人教師を招き、全国トップレベルの教育と医療がなされていた。
1896年現在の名称である『佐賀県立病院好生館』となる。以後、佐賀の医療を担う地域の中核病院として、医療教育と医療提供との使命を果たしながら、現在に至っている。