いじめの問題を考える
新年を迎えたが、さっそくいじめ自殺の報道である。学校でのいじめについて考えてみたい。
いじめは、以前は「昔からあること」、「いじめられる側も問題」という論調で語られていたが、昨今はそのように語られることは少なくなった。
いじめがすべての原因ではないが、最近では毎年100名前後の子供が自ら命を絶っている。
ふり返ってみると、いじめは四期に分けられる。
第一期は1986年の、「葬式ごっこ事件」とも言われる「東京都中野区富士見中学いじめ自殺事件」のころからで、その時期から社会問題化して、文部省( 以下文科省) が調査を始めた時期である。
それ以前の「いじめ」は子供同士の喧嘩であり、学校の中で収まるものという風潮があったが、この葬式ごっこ事件は教師も関与していたことで裁判にもなった。これにより、学校全体、国全体でいじめ問題を考えていくべきだと変わっていった。
第二期は1994年の「愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件」のころからで、同級生に恐喝や暴行を受けて中2の男子生徒が自殺した。この事件を受けて文科省は、臨床心理士を中心にスクールカウンセラーの配置を決めた。
第三期は、2006年に福岡の筑前町で起きた「福岡中二いじめ自殺事件」のころからで、生徒達に対する元担任教師の不適切な言動がきっかけだったことから、いじめが再び注目を浴びた。
事件後、文科省はいじめの定義を「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」から「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」と、概念を少し広げた。
第四期が2011年に起きた「大津市中二いじめ自殺事件」からで、事件前後の学校と教育委員会の対応が問題視され、学校の中だけで解決していた問題に警察や市当局が介入することになった。
大きな事件が起きるといじめの認知件数は増える。これは「あとで何かあったら」と心配して学校側が教育委員会に報告するからだと推測できる。
逆に、社会的に大きく取り上げられていない時期に報告すれば、「ちゃんと指導しろ」と教育委員会から言われるので、「言わない方がまし」となっているのである。
現代型いじめの特徴は、誰もが対象になるという「ロシアンルーレット型いじめ」であり、いつも、誰もが、いじめられはしないかと不安でドキドキしていなければならず、「いじめに加担しなければ、次は自分かもしれない」と、いじめが連鎖的に起きてしまうことになる。「いじめる子」、「いじめられる子」、「観察者」、「傍観者」という単純な四層構造ではなくなったのである。
他の先進国にもいじめの問題が存在し、様々な対応がとられている。毎週「いじめや人権に関する授業」をする国や、物理的・時間的死角をなくすためにスクールガードを雇用している国もある。
日本は教育予算の割合がOECDの中で最低である。1学級の人数が35名は多すぎる。教育費にもっとお金をかけるべきだろう。
いじめにあったらすぐに相談することが大事で、大人なら、本音を言える人(ソーシャルサポート)が会社に1人、家族に1人、友人に1人いれば、話すだけでずいぶん楽になる。子どもなら、友達、先生、家族に本音を話せばいいが、子どもにはなかなか難しいことだ。特に前思春期に入った小学校高学年になると、いじめにあったことを話すことは自尊心を傷つけることにつながので黙っていることが多い。また、相談することで、いじめがひどくなるのではないかという不安が大きくなる。
教師や親、そしてかかりつけの小児科・内科医などが、少し学校の話を聞いてあげることも必要だろう。
最近、新入社員のカウンセリングの中で、上司や先輩にいじめられるという相談が何件も続いた。社会にも余裕が無くなっているのだろう。子どもの社会は大人社会の写し鑑である。2014年は、少しゆとりをもった社会にできないだろうか。そんな思いでいる。