大分中村病院 中村太郎理事長(51)
【PROFILE】
■1986 川崎医科大学医学部卒
■1986 大分大学整形外科入局
■1992 大分医科大学大学院卒業 医学博士 同年 九州労災病院医員
■1994 同大整形外科講師
■1995 英国グラスゴー・ストラクスライド大学客員研究員
■2000 大分中村病院院長
■2006 社会福祉法人 太陽の家理事長
■2007 医療法人社団恵愛会 大分中村病院理事長
■2011 大分大学医学部臨床教授
著書「パラリンピックへの招待」岩波書店
大分中村病院は、1966年に65床の整形外科の単科病院からスタートし、高度成長期に交通事故や労災患者の増加を背景に、外科、脳神経外科、形成外科など外傷を主に扱う病院としてベッド数を増やし、2000年に入ると高齢化社会に対応するため内科系にも力を入れてきた。
今では総合的な救急医療の病院になり、二次救急病院として年間2千件を超える救急搬送を受け入れる。2006年には厚生労働省から臨床研修病院の認定を受け、現在9人の初期研修医が研修している。
DPCや平均在院日数の関係で、手術が終われば、リハビリは転院して、と患者に求める病院もあるが、「当院は設立当初から、リハビリまで自院で行うことが基本姿勢」と中村理事長は話す。というのも、恩師で元大分医大整形外科の真角昭吾教授と元大分大学の鳥巣岳彦医学部長から「整形外科は手術が2分の1、残りはリハビリで治療成績が決まる」ときびしく指導されたからである。
「当院は約4割が整形外科の患者。たとえば下肢の骨折の場合、手術して部分荷重の開始まで約3週間、骨癒合にはさらに3週間を要する。今回の診療報酬改定で7対1看護体制の病院は平均在院日数が18日以下となったが、回復リハ病棟や亜急性期病棟をうまく組み合わせて、十分なリハビリのできる運営を継続したい」と説明する。
民間病院であっても医療は社会的共通資本で、公的な役割を担っているという認識があり、一方で法人税などの課税、かつ公立病院のような補助金がないため、質の高い医療サービスを永続していくには、堅実な経営が求められる。そのため民間の23病院が加盟するVHJ研究会に参加して質的な向上を目指している。九州ではほかに、麻生飯塚病院、聖マリア病院、今村病院が参加している。
パラリンピックと障害者スポーツに関わって
医学部卒業直後から大分国際車いすマラソン大会に関わり、公益社団法人日本障害者スポーツ協会の医学委員や、アジアパラリンピック委員会で役員を務めてきた。
障害者スポーツに関わり始めた80年代後半は福祉やリハビリ的側面が強く、関心を持つ医師はごくわずかだったという。
「医師になってしばらくは、障害者スポーツはリハビリの延長と思っていたが、シドニーとアテネパラリンピックの日本選手団のチームドクターとして関わってから、エリートスポーツとしての分野があることを今ではよく理解できる。今後もパラリンピックだけでなく障害者スポーツの底辺拡大に努めたい」と語る。
ロンドンパラリンピックを境に、日本パラリンピック委員会が全国3カ所の病院が選手のメディカルチェックを行なう推薦施設に指定され、国立リハビリテーションセンターと大分中村病院が認定された。近々和歌山県立医大も予定されている。
「太陽の家と障害者スポーツ」
理事長の障害者スポーツへの思いは、整形外科医だった父、故中村裕氏(1984年死去)の影響が大きい。裕氏は英国の国立脊髄損傷センター、ストークマンデビル病院に留学し、パラリンピックの創設者グットマン卿のもとで学んだ。
「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に活かせ」というグッドマン卿の脊髄損傷者の治療に対する理念は、スポーツを取り入れたリハビリを行い、社会復帰をゴールとするもので、帰国して、1964年東京パラリンピック開催に尽力し、その翌年「社会福祉法人太陽の家」を設立した。
「 太陽の家はNo charity,But a Chance(保護より機会を)を理念に創設されたが、当時の日本で障害者は『保護されるべき者』であり、障害者が働くことに周囲の理解が得られず、自転車操業が続いた」と理事長は説明する。
1972年にオムロンの創業者立石一馬氏の協力でオムロン太陽㈱が設立され、安定した仕事の確保が可能となって太陽の家の経営は軌道に乗った。1978年には井深大氏の理解でソニー太陽㈱が、1981年には本田宗一郎氏の情熱によりホンダ太陽㈱が設立されて太陽の家は発展していくことになったという。
太陽の家のビジネスモデルは株式会社と社会福祉法人が共同出資して、株式会社を設立し、多くの障害者を安定雇用することで、現在は三菱商事㈱、デンソー㈱、富士通エフサス㈱も加わり、合わせて共同出資会社は8社あり、1600人の障害者と健常者が一緒に働いている。中村理事長も2006年に太陽の家の理事長に就任し、共同出資会社の取締役にも就いている。
太陽の家は、パラリンピック、フェスピック、大分国際車いすマラソンなどの発展に尽力することで障害者と接触する機会の少ない市民が障害者スポーツを通じて交流し、障害者の残存能力の高さを知る機会になって、太陽の家の支持につながった。
「閉鎖されたコロニーにならないよう、太陽の家は街中に位置し、さらにコミュニティと交流をはかるため、自営のスーパーマーケットを設置し、銀行も誘致した。また体育館やコンサートなどが開催可能なコミュニティセンターを作って地域に開放している。市議会議員も輩出し、人口10数万人の別府市で世帯も含めれば1千人を超える規模の太陽の家は、コミュニティの飲食店、タクシー、パチンコ屋などの大事な顧客ともなっていて、バリアフリー化も進んでいる」と語る。
「父は障害者スポーツの普及に熱心でしたが、息子の私がスポーツをしようとすると『医学部に入れんぞ』と止められました」と中村理事長は笑う。
「それでも私はスポーツが好きですから、今もフルマラソンや自転車のロードレースなどいろいろ挑戦します。Bjリーグ『大分ヒートデビルス』は当院の整形外科がチームドクターとなり、私も熱烈なブースターです。(聞き手=内藤、撮影=綾部)