共通理念が4人を支えた

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大分記念病院 理事長 豊田貫雄

【経歴】
1964:慶応義塾大学医学部卒
1964:立川米国空軍病院でインターン
1965:同上病院にて内科レジデント
1966:慶応義塾大学医学部内科入局
1966:米国オクラホマ大学医学部病院で内科インターンおよび内科レジデント
1968:米国オハイオ大学医学部関連国立デイトンVA病院にて内科レジデント
1970:慶応義塾大学医学部内科入局
1970:東京新赤坂クリニック副院長
1972:大分県立病院第一内科(現第三内科)副部長
1976:大分県立病院癌センター血液内科部長
1980:12月3日 大分記念病院開設
1984:医療法人 大分記念病院 常務理事・院長
2006:医療法人 大分記念病院 理事長
日本内科学会認定医
日本血液学会認定血液専門医兼指導医
日本糖尿病学会専門医

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大分記念病院 理事長 豊田貫雄

先生の医師としての経歴を教えてください。

1964年に慶応大学医学部を卒業し、大学病院にとどまる人が多かったのですが、私は臨床医学が好きだったので、当時東京の立川にあった米国空軍病院でインターンとして勤務する道を選びました。

そこで働くためECFMG(Educational Council for Foreign Medical Graduates)という外国人向けの米国医師国家試験を受験しました。コンピューターで採点される1次の筆記試験は午前と午後で6時間に及びましたが、幸いこれに合格し、2次の面接試験に臨みました。面接では会話の能力だけでなく、応答や身だしなみまでテストされました。

合格後ロテーティング・インターンとして1年間、内科、外科、整形外科、脳外科、産婦人科などの各科を2カ月間ずつ回って、朝から晩までベッドサイドで患者の診察の仕方からカルテの書き方、検査や疾患の診断まで徹底的に教わり、臨床カンファランスで鍛えられました。

その後特別にもう1年、福地義之介先生(後に順天堂大学医学部附属順天堂医院呼吸器科教授となる)と2人で、内科専門のレジデントを経験させてもらった後米国に渡り、オクラホマ大学医学部附属病院とオハイオ大学医学部附属デイトンVA病院で合計4年間にわたって内科の臨床医学を学びました。

日本と米国での医学を体験して両国の違いを感じましたか?

米国の大学医学部は臨床医学を重んじ、学生や若い医師の臨床教育にとても力を入れています。臨床医学の教育のためにしっかりしたインターン制度とレジデント制度が確立しており、医学生は早くから患者のベッドサイドでの臨床実習を受けるので臨床医学のレベルが高く、卒後1年目にインターンはレジデントの監督の下に入院患者の診断・ケアをすべて任されます。2年目にレジデントとなると自分が学びたい専門分野を選択することが出来ます。3~4年で卒後研修を修了すると専門医試験を受ける資格を得ます。専門医資格を持っているかどうかで患者の評価も違って来ますし、医師としての報酬にも差が出ます。当時日本では、殆どの医学生が卒後大学病院の医局に残り、信じられないことですが数年間は無給が普通だったのでアルバイトをしながら研究に従事したり、学生の教育に携わったり、学会発表をしたりしており、大学も基礎研究で論文を沢山書く医師をより高く評価し、オールラウンドな知識と経験を持った臨床医を育てることにはあまり熱心でなかったように思います。

日本に帰られた後は?

帰国して母校慶応に一時勤めた後先輩の経営する新赤坂クリニックの副院長として勤務しましたが、家族の希望や誘いもあって、故郷の大分に戻り、大分県立病院内科副部長・同院がんセンター血液病内科部長を勤めました。でも、患者中心のチーム医療の理念を掲げて従来の診療録からPOS(問題指向型システム)に変更した際も看護部や他部門の協力を得られなかったり、勤務医としての限界を感じつつあったのも事実です。患者のための医療をしたいという思いが募ってきたころ、県立病院の同じ医局で働いていた高田三千尋部長(現常務理事・名誉理事長)、末友祥正副部長(現常務理事・病院長)、向井隆一郎副部長(現常務理事・副院長)と共に、理想とする病院を開こうと意気投合し、1980年12月3日に血液疾患を主体とした内科専門病院を創立しました。開院当時は世間から共同経営を案ずる声もありましたが、4人全員が患者のための医療をやろうという共通理念を持っていたので信念は揺るぎませんでした。

今思えば私も若くて無謀だったかも知れませんが、こういう挑戦が出来たのは私の立川と米国での経験と共に大分県立病院での勤務を通じて培われた4人の仲間の深い信頼関係のお蔭だと考えます。

どのような病院経営を考えていますか?

いくら患者中心の医療を標榜しても、その実践となると医者だけでは到底無理なことです。医療の多くの部分は看護師やリハビリの理学療法士など、患者に近いところでケアしてくれる人たちがいなければ成り立ちません。各々の職員がまさに病院の命ですし、トップダウンでなくボトムアップがベストです。私も毎日の朝礼で職員一人一人の顔をみて体調を観察しています。何か患者さんのことで問題がある時は、職員同志お互いが面子にこだわらず謙虚に話し合うことが必要であり、縦の関係ではなく横の関係が大切だと考えます。

当院ではすべての職員に目線を患者さんに合わせるよう指導しています。「患者さんに対してどうあるべきか」というのが医師やコ・メディカルの価値なのです。また、万が一、医療従事者のだれかが医療事故を起こしてしまっても、決してその職員を糾弾するのではなく、なぜそれが起きたのかを検証し、ヒューマンエラーかシステムエラーかを特定しなければなりません。人間である限り医療ミスは完全には防げません。そこで小さなミスでもすべて報告し、皆に周知させることにより大きな医療過誤を予防する必要があります。医療は質が良いだけでは不十分で、安全でなくてはならないのです。また早く診断して早く手をうつことも心掛けています。当院には10名の検査技師がいますので大部分の検査を院内で迅速に行うことが可能です。放射線技師が4名、管理栄養士が4名、薬剤師も6名います。当院くらいの規模の病院(118床)としては恵まれていると思います。また当院は医師、看護師その他の職員の離職率がとても低いのが自慢で、看護師も不足している時代ですが、出産・育児を経て復帰する職員も多いので10対1看護を維持することができ、ありがたく思っています。

医師と経営者の両立は大変ですか?

大変ですね。私は大分県立病院時代は血液学を専門に診療していましたが、当院開院後から糖尿病患者数が急増したため、糖尿病患者さんを診ているうちに糖尿病の専門医になっていました。そのため週3回の外来日は予約で一杯になり、朝8時半から午後2時か3時まで診療することが珍しくありません。その間トイレに1回行く程度です。

しかし最近は医事課の職員が横に座って指紋認証により電子カルテでサポートしてくれるようになり、以前よりも随分楽になりました。2006年に心筋梗塞を経験したおかげで、いつ死んでもいいと思えるようになったし、当時より健康に気を使うようになりました。下肢を鍛えていないと長時間の外来診療に耐えられませんので、時間の許す限りヨークシャテリアの愛犬《ムサシ》とのウオーキングを楽しんでいます。でも、私を頼ってくれる患者さんのことを思うと頑張らなくてはと力が湧いてきます。

これからも職員全員とともに地域の患者さんに信頼され喜ばれる病院にしたいと思います。


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