1年前の東日本大震災で、住民に避難を呼びかけるマイクを放さないまま波間に消えた若い女性がいたことをテレビ報道で知った。
同じような状況で最後まで他人を助けようとし、海の藻屑となった人はほかにも大勢いたと聞く。
その行為は善行の極致として末長く伝えられ、たたえられるに値するが、巨大な波に飲まれていく彼らの胸中を考える時、彼らは少しも怖くなかったのではないかと思う。
それは、勇気があったからとか職務に忠実だったから、とかではなく、「自分のことを忘れていたから」ではないかと推察できるのである。
ここに滅私(めっし)のもう一つの顔を見つけることができる。滅私は人に、不動の強さを生じさせるのではないかと。
その上に立って日本の歴史を顧(かえり)みると、七十年近く前にも同様のことが、天災ではなく戦災として数多く引き起こされた。後年になってその行為を無駄だったとか無謀だったとか言うのは、助かった人の言い分であり、死が怖くなかった当人たちの心境とはまったく無縁の話である。
私が死をこわがるのは、自分に執着しているからかも知れない。冒頭のマイクを放さなかった女性が、もしも津波から逃げている立場であれば、自分の命に固執しているがゆえに大きな恐怖に襲われたとも考えられる。つまり彼女も私と同様、自分の死はやはり怖いのだ。
人は誰でもいずれ死ぬ。強かろうが弱かろうが必ず死ぬ。その死への恐怖は避けられないのか、それとも避けられるのか。
その答えを、マイクを最期まで放さなかった女性が教えてくれているような気がするのである。
誰かのことで心が満たされた時、弱い人も強くなり、自分のことで心がいっぱいになった時、どんなに強い人でも弱くなる。 (コバルト色の空)