頴田病院(飯塚市頴田)| 本田宣久院長
プロフィール
本田宣久(=上写真/左)
●長崎大学医学部卒
●飯塚病院呼吸器内科勤務を経て現在頴田病院院長。
下の写真は家庭医について説明する大杉泰弘家庭医療センター長(左側)と本田院長。大杉医師は藤田保健衛生大学を卒業後飯塚病院に勤務、2011年11月から現職に就く。インタビューの途中、新病棟の完成が間近なためか、本田院長にはひっきりなしに電話がかかっていた。
経営破綻した飯塚市頴田地区の病院を、「家庭医」という聞き慣れない分野で再生させようとしている若い医師たちがいる。彼らの真意と地方医療のあり方などについて率直に聞いた。
―家庭医について大まかに教えてください―
1980年代から米国にバイオサイコソーシャルモデル(体・心・社会環境の3つの観点から患者を診る=編集部)と言われるものがあります。
それにはソーシャルリソース(社会資源)をどれだけ知っているかが重要です。患者会とどう関わるか、ケアマネジャーにどんな人がいるのかを知っておくとかです。
キュア(治療)からケアが必要な時代になっているのに、もう来なくていいと医者に言われて、困っている人もいるわけです。治療が終わった後のケアまで知っていることが非常に大切だと思いますが、そのリソースを紹介してくれるところがなく、ケアを組み合わせたりコーディネートしてくれるところもない。それをすることが患者の幸せに必要だということをよく理解し、そのためのツールを知っていてコーディネートできる教育を受けている医師が家庭医ということになります。
―治療後も細かな指導をするのでしょうか―
患者さんに提供するものを医師が決めるのではなく、「この人は何を求めているか」から始めるのが私たちのやり方です。専門医の知らないことでも患者にとても大切なことがある。それをつなぎ、よろこんで担うわけです。
医師の個性としてそれのできる専門医はいますが、当院で取り組んでいるのは、個々の資質によらず、トレーニングと教育で医師全員ができるようになる。それが家庭医療という分野で、患者の家庭や家族の状態も把握するわけです。
―具体的にはどんな医療になるのでしょう―
たとえば70代の男性がケガで入院したとします。ケガが治ってリハビリも済んで退院すれば、医者の仕事は終わるわけですが、家庭医は、そばで介護している奥さんが認知症っぽいことに気づき、介入を始める。そうこうしているうちに姑と嫁の関係で娘さんがどうも鬱になっているらしいと分かり、娘さんの治療も始める。そして、その娘さんは母親で、子育てに対して手が薄くなっていて、子供に予防接種を受けさせていないことがわかる。
私たちは、お爺さんのケガからはじまって妻の認知症に気づき、娘さんの鬱に行き着いて子供にワクチンが接種されていないことにたどり着くまでを、1人のドクターがやる。ケガも風邪も1人の医師が治療し、手に負えない場合は専門医を紹介することになります。
専門医がそこまでやると本来の仕事ができなくなって非効率になります。つまり家庭医は、専門医の能力をさらに発揮してもらう立場でもあります。
―患者から見れば家庭医は「私の先生」ということになるでしょうね―
まさしくその通りです。「私の先生」であり、「わが家の先生」でもあるわけです。その意味では古くて新しい医療と言えるかもしれません。
ケア・フォー・ハピネスだと私は思っているんです。われわれが関わることでこの人やこの家庭は幸せになった、ということを結論として大事にしたい。
―頴田病院は前々からその方針なんですか?―
4年ほど前に市立病院が大きな負債を抱えて行き詰まり、経営移譲された飯塚病院が、この病院を崩壊させないために、新しい枠組みで若い医師を育てようとしたことがきっかけです。
「古き良き町医者」を、よりシスティマチックに、よりグローバルな視野で教育することを強みとして、若い医師が魅力を持つ病院として再出発したわけです。
専門病院が高い山の頂上にあるとすれば、それだけでは患者さんは幸せになれないので、裾野をわれわれ家庭医がカバーしていく、というふうなイメージでしょうか。
―それは、日本では数少ない試みでしょうか―
家庭医療専門医は日本に200人ほどしかいません。彼(同席した大杉医師)はその1人なんですよ。私たちは家庭医療によって病院の崩壊を防ぐモデルになりたい。その経験をこの地から全国に発信するんだと決意することで、ローカルから日本全体に影響をおよぼしたいと思っています。そのために麻生グループの一員として飯塚病院と共に、米国ピッツバーグ大学の家庭医を招聘して助言を受けながら、日本での運用を考えました。今年春に落成する新病棟はそれに見合う、日本には少ないデザインになっています。
―家庭医が病院崩壊を防ぐとは?―
この病院を成り立たせるのに専門医を5人雇ったとしても、1つの科に1人では医師は研鑽のしようがなく、成長できる場がなければ去っていきます。そうやって地方は崩壊しているんです。でも家庭医が5人いれば互いに研鑽できるので、医師にとってメリットがあります。いま頴田病院には、愛知、茨城、福岡、上海、岐阜、東京など各地から集まった若い医師が15人いますが、経営面で成り立たせたいわけじゃなく、頴田地域の病院を崩壊させたくないんです。ここがなくなればクリニック1つだけになりますから。
―院長のご出身はどちらですか。九州の印象は―
茨城県生まれです。長崎大学を出て麻生飯塚病院で9年間勤務しました。主に呼吸器内科ですが、株式会社立病院というものに興味があったんです。
九州はすばらしいですね。各県にすごく特長があって、「山を越えると国が変わる」ことに感動しましたし、郷土愛の強さにも惹かれます。それと美人が多いですね。ここは紙面で特に強調しておいてください。