熟考コラム 9

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ふたつの滅私 (1)

「私たち」という言葉を日本人はよく使う。英語のWEである。

早くは小中高のホームルームで生徒が挙手して担任に言うのは「私たちは」である。これを「私は」とやると、自分の意見の表明=自己中心、自分勝手と見られ、「今は『みんなの時間』だから個人の意見は控えなさい」とまず教師からたしなめられるだろう。

教育の場がそんなことだから社会人になっても、自分の意見をストレートに口にすることになんとなく罪悪感を感じ、いくら重要でも、自分の意見は「ここだけの話」として密かにささやくだけで、胸を張って主張できない。 何年か前に東南アジアの貧しい一国で、数人の青年男女とミーティングを毎週やったことがある。彼らは一人として「私たち」という言葉を使わなかった。各人が自分の意見や要望を言い、それに他の者が同意したり別の意見を言ったりして、それぞれ知恵を出し合った。

そのようなミーティングだったから全員が発言した。彼らは学歴が高いわけではなく、義務教育をどうにか終えたくらいの若者ばかりだった。

これが日本なら、しかるべきだれかが挙手して「私たちは」と意見を言い、他の者は黙してうつむいているところだ。

では「私たち」とは誰か。それを発言者に問うても、「私たちとは、私たちであって、私自身ではない」と言うだろう。黙している人に聞いても首を横に振るだろう。ではその場にいるたくさんの頭数はいったい誰なのか。とても気味が悪い。

私自身は子供のころ、たまに「ボクはそうじゃありません」と自分の意見を言っていたために、あまのじゃくというレッテルを陰で貼られていた。

日本人はディベート=議論、ディスカッション=がへただとよく言われるが、その言葉の解釈自体が、理屈の勝負、勝ち負けを前提とした言い合いといった感がある。どこにもいない「私たち」や「みんな」を引き合いに出さなければ口の動きにくい日本人が、「私は」の観点で堂々と話す外国人とまともな会話ができるはずがない。

今の日本は14年連続で毎年3万人以上が自殺している。I(私)で生まれてWE(私たち)で生きる。生きている間もIを貫くことは、日本では困難だ。自分が誰か分からないまま去る人も多いだろう。

Iを捨ててWEの立場に立つことを「滅私=めっし」と言い替えるなら、日本人は永くIを持たなかったが、近年の西洋化された文化と家族間の分断の中で個が確立し、さまざまな個的権利を子供の時に教えられたにもかかわらず、社会人になるとIを捨てなければならないのである。労せず手にした「民主主義」をこねくり回してこうなった。

その矛盾に追いつめられている人は少なくない。まさしく「滅私」である。自立できていればどんな境遇でも「Iは死なない」はずなのに。

今の日本をずっと昔に戻し、生まれた時からIを与えずに滅私を叩き込むか、今の社会からWEを排除しないかぎり自殺は減らないだろう。経済が背景にあるのではない。今の日本は物質的にとても豊かなのだから。

次回は自己喪失という意味での滅私ではなく、崇高ともいえる滅私について考えてみたい。(コバルト色の空)


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