友人の作ったたとえ話の一つに「人起こしの話」というがある。
曰く「宿で寝ていたら火事になり、目が覚めたあなたは隣の人を起こそうとしたが、深く眠り込んで起きてくれない。それでも懸命に起こそうとしている間に火が回って、宿の全員が焼け死んだ」という話である。
あなたは次に、すぐに目が覚める人を起こしたが、彼はほかの人のことに構わず一目散に逃げてしまった。
友人は言う。「最初に起こすべきは、あなたといっしょにほかの人を起こして回る人だ」。
決して起きない人や、自分のことしか考えない人は相手にするなと、彼は冷静に説く。
医療の世界では患者を分け隔てしない。起きようと起きまいと、自己中心であろうとなかろうと、平等に治療するから、このたとえ話に違和感を覚えるだろうが、自分は起こされるに値する人間だろうかと考えてみることには意味がある。
たとえばあなたが眠りから覚めない人であっても、職場に百人もいれば全員でかついで逃げられる。でも三人か四人しかいない小さな事務所だったら、あなたの昏睡は致命的だ。ほかの者の手を取り、足を取り、時間も取り、そのうち火の勢いが大きくなって、自分とみんなを焼き殺す。
ことさら厄介なのは、眠っているのに起きているふりをしていること。会話しているから起きていると思えば寝言だったり、動き始めたので目が覚めたのだろうと思ったら寝返りに過ぎなかったり、立って歩き始めたから今度こそ起きただろうと思うと、実は夢遊病の徘徊だったりする。つねるとうめき声くらいは上げるが、やめると再び夢の中。周囲の者に責任をすべて負わせ、本人は首を少し傾げるだけ。眠っているから何も分からないのである。
周囲に眠っている人を捜すのではなく、実は自分がそうなのではないかと考えてみることは、たまには必要だ。そろそろ目を覚ましたらどうか。
(コバルト色の空)