日本初の生体肝移植に挑んだ永末直文・当時島根医科大学第二外科助教授の半生を振り返る「私の医師人生」。第3回はスウェーデン留学時代。
済生会八幡病院から将来の海外留学をバックアップすると約束されていた永末氏。1971(昭和46)年、大学時代から「憧れていた」という肝再生の権威、スウェーデン・ルンド大学のベングマルク教授に「師事させてもらいたい」と手紙を送った。
ベングマルク教授から来た返事は「外科医として研究の視点を持ち続ける覚悟があるか」だった。永末氏が「もちろん」と返信すると、「来年から、うちに来なさい」との返事をもらった。
それから留学までの1年間は必死だった。「あの日本の医者は何も知らないではないかとスウェーデンで言われたくない」「日本人の代表として留学するのだ」。そんな思いで、それまで以上に臨床と研究に打ち込んだ。
翌1972(同47)年の7月、スウェーデン南部のルンド大学に留学。「ここ で肝臓外科の基礎を学んだ」と永末氏は振り返る。
週に1回、ブタを使った異所性肝移植(もともと肝臓がある右横隔膜以外の場所に肝臓を移植する方法)が実施されており、永末氏もその研究チームに加わった。
同年、冬のことだった。1人の中年女性が集中治療室に運ばれてきた。交通事故による臓器不全。特に肝障害が強く、一刻を争う状態だった。
その時、ベングマルク教授は、永末氏と同僚が摘出したブタの肝臓を、補助肝として女性の右の側腹部に移植。すると、その補助肝から分泌した胆汁によって、女性の肝臓が再び機能し始めた。
「これが留学中に人体に肝臓を移植した、ただ一度の手術だった」と永末氏。ヒトの肝臓を移植する機会はなかったという。
永末氏の留学期間は1年間だった。帰国して、済生会八幡病院に向かうと、屋上にできていたのは動物実験室。
1973(同48)年の増改築時、廣澤正久院長が永末氏の依頼で用意したものだった。部屋には、二つの手術台と、無影灯。大型の空調装置まで設置されていた。
増改築は、永末氏の留学中に起きた火災によって、余儀なくされた工事だった。「病院が大変な時に、実験室を用意してくださった院長に、感謝の気持ちでいっぱいでした」。この実験室で、日本で初めての生体肝移植につながる研究が始まった。
(次号に続く)