地域の活性化を後押し 歴史や文化の継承にも注力
1955年日本大学教養学部修了。1963年久留米大学医学部卒業。宮崎県立日南病院、泉崎病院(現:医療法人祥杏会おもろまちメディカルセンター)、沖縄中央脳神経外科(現:医療法人寿仁会沖縄セントラル病院)開設などを経て、1994年から現職。
開院は1973年(当時は沖縄中央脳神経外科)。沖縄返還後の「何もない状況からスタートした」と語る大仲良一理事長は、豊富な実績と最先端の医療技術を擁する病院に育て上げた。「より地域に密着した取り組みに力を入れたい」と意気込む。
―開院時の状況は。
太平洋戦争の末期、1945年の「沖縄戦」で、沖縄県の各所が焼け野原と化しました。死者は20万人を超えたと言われます。
沖縄は「何もない状態からの再出発」を余儀なくされました。もちろん、それは医療においても言えることでした。
開院に当たって脳神経外科の医師や看護師、検査技師を確保するために、国内は言うまでもなく、台湾にも足を運んでリクルート活動を行いました。
その結果、久留米大学から1人、台湾で日本の医師免許を持つ3人の医師を確保することができました。そうして1973年に当院の前身となる沖縄中央脳神経外科を開院。1978年に「沖縄セントラル病院」と改称しました。
―どのような方針を。
「どこの病院とも競合しないことをやろう」と方向性を探っていた時、漢方の勉強のために訪れた北京で「高気圧酸素療法」と出会いました。
高気圧酸素療法は、潜水時、水面に急浮上した時に起きる減圧症(潜水病)の治療などに活用されています。周囲を海で囲まれた沖縄県で「レジャーが回復すれば、潜水による減圧症が増えてくるだろう」と考え、沖縄県の民間病院で初めて高気圧酸素療法を導入しました。
現在は減圧症、循環器疾患、スポーツ外傷、突発性難聴の治療や、ダイバーの健康診断を行っています。
メタボリックシンドロームという言葉が一般的ではなかった2003年。「生活習慣が変われば肥満や高血圧の患者さんが増えてくるだろう」と考え、院内にメディカルフィットネスセンターを開設しました。
健康管理センターでは厚生労働省が推進する「トータル・ヘルス・プロモーション(THP)」の研修を受けた多職種が、健康管理から栄養指導、メンタルヘルスまで、幅広くサポートしています。
沖縄県でリハビリテーションを開始したのも当院が初めて。沖縄県立那覇病院(現:沖縄県立南部医療センター・こども医療センター)に理学療法士を派遣して教育に取り組むなど、沖縄県におけるリハビリテーションの基礎づくりにも携わりました。
県内で唯一のガンマナイフ装置を導入して以降、患者さんが内地に行く必要もなくなり、数日で退院できるようになりました。患者さんの負担は大幅に軽減されたと思います。現在でも10年ごとに医療機器を更新し、常に新しい医療を取り入れるよう努めています。
―今後は。
認定特定非営利活動法人「AMDA沖縄支部」として、1995年から国際医療ボランティア活動を継続してきました。ペルー共和国でのエイズの保健活動、フィリピン共和国における台風被災者救援活動。その内容は多岐にわたっています。国際医療支援に興味のある若い医師には、ぜひ当院に来てほしいですね。
「オンリーワンの病院」を目指してきた中で、県内のさまざまな場所から患者さんに来ていただけるようになりました。今後は、沖縄県の歴史や文化を若い世代に伝えるとともに、地域活性化を目的とした活動に力を入れる「地域密着型」にかじを切っていく方針です。
関連施設の高齢者専用賃貸住宅「ユートピア沖縄」の入居者と地域の方との交流会を予定しています。
戦争体験の継承、県内に住む外国人との交流会、手紙の交換、油絵、カメラ、刺繍といったさまざまな創作活動。県外の高齢者施設との定期的な交流を通じて、参加した方が新たな生きがいを見いだすことができればと期待しています。
医療法人寿仁会沖縄セントラル病院
那覇市与儀1-26-6
TEL:098-854-5511(代表)
http://www.central.jyujinkai.or.jp/