世に広がりつつある(らしい)「反知性主義」へのささやかな抵抗を試みて、「嫌われる側」である社会学者たちが社会をほどき、結びなおす―。
その意味は、日本社会の将来を語り合うための共通の理解、土台づくりだ。自分の立場に固執して相手の主張を否定し続けるだけでは、実のある議論は始まらない。そんな思いのもと、「GDP」「勤労」「時代」など12のキーワードを取り上げて吟味。みんなが同じ目線で語り合うための「知的プラットフォーム=大人のための教科書」を目指したという。
個人的に最も興味深く読んだのが第8章「信頼」。日本人とアメリカ人を対象とした統計数理研究所による社会調査などを紹介している。それぞれの国民性を、どんなふうにイメージするだろうか?
「たいていの人は信用できる?用心するに越したことはない?」。そんな質問に対して「たいていの人は信用できる」と答えたアメリカ人は47%、日本人は26%。「たいていの人は他人の役に立とうとしているか?それとも自分のことだけ考えているか?」。前者はまたもや47%、後者は19%だった。
上記は1978年のデータ。「なんだ昔の話か」と切り捨てるなかれ。実は、近年も同じような傾向を示す報告がある。国際的な社会調査での「一般的に言って人々は信用できるか」という問いに、日本が「はい」と答えた割合は、OECD加盟国25カ国中19位だったそうだ。平和で安全で親切心にあふれ、落とし物がちゃんと戻ってくる社会。そう語られることの多い日本だけに、結果を聞いて少々ギャップを感じた方も多いのではなかろうか。意外にお人好しばかりではないのだ。
信頼とは何か。人間を取り巻く環境はとかく複雑だ。無数の人々、無数のコミュニケーションー。すべてを把握した上で自分がどう行動するかを決めることは不可能。「この人はこうするにちがいない」という予測のもとに私たちはアクションを起こす。つまり、それも一種の「信頼」に含まれると定義する研究者もいる。
言い換えれば、人は常に「他人を信用せざるを得ない」状況に置かれていることになる。飲食店で出された食べ物。医師に処方してもらった薬。自分の口座番号も暗証番号も知っている金融機関の従業員。「信頼が前提」のシチュエーションは枚挙にいとまがない。そこから「真の信頼関係」に発展していけるかどうかは、どれだけ心を開けるかにかかっているのだろう。(瀬)