名古屋掖済会病院 北川 喜己 副院長・救命救急センター長

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ER型救急のパイオニアに聞く災害への備え

【きたがわ・よしみ】 名古屋市立菊里高校卒業 1983 名古屋大学医学部卒業 名古屋第二赤十字病院 1990 名古屋大学第一外科 1993 八千代病院 1996 名古屋掖済会病院 2003 同救命救急センター長 2008 同副院長兼任

 1978年、東海地域で初めて救命救急センターの指定を受けた名古屋掖済会病院。1999年、ER医が常駐して一次から三次までの救急患者を幅広く受け入れるシステムに転換。ER型救急のパイオニアとして、注目を集める。

 同システム導入の提案者、北川喜己・現副院長は、災害時医療の中心となる救命救急センターのトップを兼務。県災害拠点病院としての南海トラフ地震への備えと救急への思いを聞いた。

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◎揺れと津波から患者と職員を守る

 当院は名古屋港から約3kmの場所にあり、すぐ近くに中川運河が流れています。南海トラフ地震が発生した場合、この辺りには最大で2mの津波が来ると想定されています。

 病院の建物自体は免震構造になっていますから、大地震が来てもつぶれることはありません。しかし、津波による浸水は避けられない。そうなったときに、応援が来るまでの間、入院患者さんと職員が無事でいられるよう、準備しています。

 当院は停電になった場合、自動的に自家発電に切り替わりますが、一部の棟の自家発電装置は1階にあり、浸水で使えなくなることも想定されます。そこで、放射線棟の屋上にも自家発電装置を設置。配電盤を通さない独立した機器で、非常時にはここから集中治療室と救命救急室へ送電することができます。

 水の確保については、深さ150mからくみ上げた井戸水を浄化できる装置を地上から2mの高さに設けています。

 患者さん450人分と医療スタッフ400人分の食料(1日3食)と飲料水の備蓄は3日分。エレベーターが止まった際、自力で階段を上がることができない患者さんを1階から3階まで運ぶために、空気応用担架「エアーストレッチャー」も用意しました。外傷の患者さんが搬送された場合のトリアージならびに診療・処置のエリアは救命救急センター3・4階に設置する予定です。

 想定されている最大震度6強の揺れへの対策として、ナースステーションにあるミキシング台や薬棚、病室にある床頭台などに耐震固定も施しています。

 昨年11月、新病棟が完成。屋上に大型ヘリポートを設置しました。通常のドクターヘリだけでなく、海上保安庁の大型ヘリも着陸できる広さです。

 今までは、海上保安庁のヘリで洋上の患者さんを搬送する際、中部国際空港セントレアに降りて、そこからドクヘリや救急車に乗り換えていました。ドクヘリも当院の南側に隣接する南郊公園に着陸し、そこからストレッチャーで当院に運ぶという状況でした。救急で時間がかかるのはもちろん、地震で地割れが起きた時や津波時には、患者さんを運び込むことができなかったのです。

 しかし、ヘリポートができたことで、屋上から1階の救命救急センターERに最短距離で患者さんを搬入できます。通常の救急もそうですが、災害時にも大変心強いと思います。

 新病棟建設は、それまで南棟・北棟に分かれていた病棟を1カ所にまとめるのが狙いでした。コンパクトなL字型で病棟の中央にスタッフステーションを配置。看護師が行き来しやすい造りになっています。

 またリニアック(放射線治療装置)やIMRT(強度変調放射線治療)、PET-CTなど、最新の治療・診断機器も導入。愛知県がん診療拠点病院としての機能強化も図りました。

◎過去の震災を教訓に

 熊本地震では昨年4月14日の「前震」発生から3日後、当院からの私たち3人を含む愛知県のDMAT隊が福岡空港に入りました。私は統括DMATとして、福岡空港で全国から集まってきたDMATを受け入れ、全チームを熊本市内と阿蘇市内の2カ所に振り分けました。 当院のチームも二手に分かれて、片方は熊本県庁で、熊本市内に入るDMATを統括する役割を担い、もう片方は阿蘇市内に入って病院支援をしました。

 今回のDMATの主なミッションの一つは「病院からの患者避難」でした。建物倒壊の恐れがある12〜13の病院から患者さんを転院させる必要があったのです。

 しかし、患者さんを病院の外に運び出していたとき、「本震」が発生。幸い、けが人なく安全な場所に避難できましたが、DMAT隊員たちも危険に直面しました。

 DMAT隊員は医療者です。同じ被災現場で活動していても、自衛隊員や消防隊員、警察官とは体の鍛え方も心構えも違います。DMATのメンバーの安全を確保しながら、どこまで活動できるか。今後解決すべき大きな課題です。

 阪神・淡路大震災、東日本大震災、そして熊本地震。大きな災害が起きるたびに救援救護のシステムや災害への備え方は進化してきました。しかし、クリアすべき課題はまだまだあります。

 阪神・淡路大震災では建物の倒壊や火災が大きな被害を生みました。東日本大震災は津波による被害が大きかったし、熊本地震は「前震」の後に「本震」が起き、さらに余震が頻繁だったため、車中泊を余儀なくされた方たちが大勢いらっしゃいました。こうしたタイプの異なる災害に、柔軟に対応できるシステムを構築しなければなりません。

 南海トラフ地震は、阪神・淡路大震災と東日本大震災を合わせたような状況になると想定されています。そうなると、愛知県内の医療機関だけでは県内の重傷患者を治療できなくなります。県内の災害拠点病院のすべてがフル稼働できるとも限りません。その状況下で医療を続けるための仕組みづくりが必要です。

◎ER型救急を守り、若手を育てる

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 当院は、1978(昭和53)年、救命救急センターの指定を受けました。しかし、私が外科医として赴任した1996年ごろは、救命救急センターの専従医はゼロ。各診療科の医師の指導を受けながら、研修医が担っている状況でした。

 救急医療を統括する医師の必要性を当時の院長に訴えると、「お前がやれ」という話になり、1999年には救急科が開設されることになったのです。

 救急科は当初2人体制。私は救急科部長として、若手の救命救急センター専従のER医とともに働きました。ERでは、搬入された患者さんの初療をER医が担い、その後の専門治療は各科にお願いすることがほとんどです。部長の役割は、他科とコミュニケーションを取り、スムーズに連携できる仕組みづくりでした。

 当院では、他科の先生たちもERの現場にかかわってくれていて、当直もやってくれます。病院全体で救急医療に取り組むことが大事で、それが実践できているのが当院の救急の強みでしょう。

 当院に救急志望で来てくれた先生には、救急の専門医を取得してもらい、最終的には独り立ちできるようになってほしい。ここで学んだことを別の場所で生かし、活躍してほしいと思っています。すでに何人かの医師が当科を巣立ち、地元の病院で活躍していて頼もしく思います。

 しかし、教育もできる診療科として民間の救急科が長く継続できた例はあまりないのが現状です。当科に来てくれる先生の多くは医局に属していないので、大学からの派遣には頼れません。ひとつ間違えば、人数が減って業務を縮小せざるを得なくなります。

 今後は人員をいかに確保し、業務を維持していくか。民間病院で継続可能なER型救急のモデルを構築し、一人でも多くの若手医師を育てることに力を尽くしていきたいと思います。

 現在、救急科専従の医師は10人になりました。中には今夏に出産を控えた女性医師、3人の子育て中の女性医師、育児休暇中の男性医師もいます。オンとオフをはっきりさせる職場なので、職場では救急医の顔で働き、家庭に帰ればお父さん、お母さんの顔に戻る。みんなハッピーにやっていると思いますよ。

 日頃から若手には「家庭を大事にしろ」と言っています。救急医に限ったことではありませんが、仕事中に家庭を心配していては、仕事に専念することができません。私が今こうして仕事に打ち込めるのも、かみさんあってこそ、です。

名古屋掖済会病院
名古屋市中川区松年町4-66
TEL:052-652-7711(代表)
http://nagoya-ekisaikaihosp.jp/

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